ヒカルはそれからいつものようにぼーっと過ごす毎日を過ごし、私と要は「力」を使う練習を続けた。
海王中でのことで、ヒカルの気持ちもよくわかったし、打ちたいと思っていてくれることもわかった。
それはよかったのだけれど、いい解決方法は結局は思い浮かばない。
ヒカルは私が見えないし、私はヒカルに存在を伝えることが出来ない。
結局はヒカルが立ち直ってくれるのを待つしかないのだ。
それはとてももどかしくてしかたがないけれど、ヒカルならきっと大丈夫だと思う。

私を忘れてもいいから。
早く、早く立ち直って欲しい。
ヒカルの打つ姿を見られたら、もう私は帰ろうと決めた。

 

 

そんな決意をしたにも関わらず、私は力を使えないままだった。

 

 

ある日、いつものようにヒカルと家に帰ってみると、ヒカルが玄関でふと立ち止まった。
「ヒカル?」
私の声が合図のように、ヒカルは靴を脱ぎ捨てて階段を駆け上がった。
「ヒカルっ?!」
バン
私が階段を駆け上がっている間にドアの開ける音が響いた。
「……い、伊角さん………か」
え?
私がヒカルの間からひょこっと顔を出すと、ヒカルの部屋の中には伊角さんがいた。
「……進藤」
「佐為、誰?」
要が私と同じように部屋を覗き込んで聞いてくる。
「ヒカルが院生の頃の友人です」
「へぇ」
「ヒカル!お母さんが声をかける間もなくかけ上がって……どうしたの!?」
(佐為じゃなかった…)
「誰かがいる気配がしたから―――」
ヒカル…
「…っていうかさ、人の気配はわかるのに、佐為の気配はわかんないんだね…」
要は苦笑して私を見た。
「しかたないですよ」
私は要に微笑み返すとヒカルを覗き込んだ。
ヒカルはいつもと同じ、少し沈んだままの顔をしていた。
「さっきみえたのよ。今アンタのお茶も持ってくるわ」
「オレはいい」
ヒカルの返事にヒカルの母は戸惑った表情を見せた。
ヒカルは気がついていない。
ヒカル…
「すみません」
ヒカルの母が伊角さんにお茶を置いて出て行く。
「久しぶりだな、進藤」
「…うん。伊角さん中国に行ってたんだってね」
ヒカルがカバンを下ろして伊角さんの横に座る。
私はヒカルの横、要はヒカルのベッドの上に座る。
「ああ、2ヶ月向こうで勉強して昨日帰ってきたんだ。それよりおまえどうしたんだ。和谷に聞いたら手合いも研究会もずっとサボってるっていうじゃないか」
(困ったな…どっか逃げ出すか)
ヒカルぅ!
(でも久しぶりに会った伊角さんをほっぽっといて逃げちゃうわけにもなァ…)
そうです!折角来てくれたんですから!
「おまえ、搭矢をライバルだって言ってたよな。搭矢を追うのはムリとだと思ってそれでやる気がなくなったのか?」
「搭矢はカンケーないよ。もうムリだと思って…ってどういうこと?」
「知らないのか?アイツはもうとんでもない所で戦ってるぜ」
伊角さんはカバンの中から週刊碁を取り出した。
ヒカルはそれを覗き込んで顔色を変えた。
私と要もそれを覗き込む。
「………昇段棋士?搭矢!もう三段になったのか」
まァ
「その上の今週の手合いの所を見てみろ。今日の日付だ」
「……………萩原昌彦九段――搭矢アキラ三段。本因坊戦……三次予選決勝。三次予選決勝!?」
まァ
「搭矢―――こんなところまで行っているのか…。今日勝てばトップ棋士8人のリーグ戦に仲間入りだ」
そう言ったヒカルの顔は私と一緒にいた頃の、今とは違う、いきいきしたと言えばいいのだろうか、そんな表情をしていた。
それを伊角さんも感じ取ったらしく強い口調でヒカルを問いただす。
「情熱は残っているようだな。じゃあなぜ碁を打とうとしないんだ!」
「あ…いや、べ、別にオレはこんなの………」
ヒカルは動揺したようで、慌てて週刊碁を折りたたむ。
「だ……だいたいオレが碁をやめようがどうしようと勝手だろっ」

薄々はわかっていた。ヒカルが碁をやめようと考えているかもしれないこと。
けれど、ヒカルの口から聞きたくなかった。
碁をやめるなんて言葉……
「碁をやめる!?本気か!?」
「…………」
ヒカル
返事をしないヒカルに、伊角さんは立ち上がって碁盤に向かう。
「進藤、一局打とう」
伊角さんは碁盤を持ち上げた。
「ちょっ、伊角さんっ。オレ打たねェよっ」
伊角さんはヒカルの言葉をお構いなしに碁盤を部屋の中央に運ぶ。
「ほっといてくれよっ。オレの心配なんかするなよ!」
「おまえのことを心配して言ってるわけじゃない。オレのために一局打ってくれ。今日はそのために来たんだ」
「え?」
「進藤、覚えてるか。去年のプロ試験。オレとおまえの一局」
ヒカルは息を呑んだ。
「オレが…ハガシの反則をして……投了した一局。投了をためらった長い時間…。反則をごまかせないかと考えた自分…。苦い記憶だ。進藤、おまえとはあの一局が最後になってしまっている。今年のプロ試験が始まる前におまえときちんと一局打ち切りたい。オレをそこからスタートさせてくれ」
「伊角さん」
伊角さんはカバンからハンカチを取り出すと碁笥を拭き始めた。
ヒカルが打たなかったからホコリが溜まっていたんですね。
それほど打っていなかったと言う現実が私には悲しい。
「オレ、中国行ってプロになりたいという気持ちを強くしたんだ。若い棋士達が1日碁の勉強に明け暮れている中にいて、オレもこの道を歩きたいと思ったよ。プロ試験は目標だけどゴールじゃない。道はずっと続いている。みんな戦いあってるが同じ方向に歩いてるんだ。トップ棋士もおまえ達も」
「オレも…」
そう、ヒカルにはまだ道がある。
私は遠い昔にその道を失った。それを後悔して、誰かの道を貸してもらっていた。虎次郎とヒカルに。
ヒカルには私と同じような気持ちを味わって欲しくない。
「違うのか?リタイアするのか?おまえ。おまえがいなくなったら……残念だけどな」
「……オレ…」
ヒカル、いいんです。
打って――!
ヒカルは自分の中で葛藤していたようだけど、最後には首を振った。
「!」
「打たねェ!打たねェってば!」
…ヒカル
「進藤、おまえの人生なんだから碁をやめようがとやかく言う気はないけど、でも一局だけオレと打ち切ってくれないか。オレのために」
「伊角さんのために…」
「ああ、そうしたら帰るよ」
「…………」
どうしよう。そうヒカルが思っているのがわかった。
伊角さんは真っ直ぐにヒカルを見据えていた。
真っ直ぐな眼差しで。
「…わかった」
ヒカル!
私は嬉しくて立ち上がった。
ヒカルが打つ!打ってくれる!
(佐為――――)
「はいっ」
(伊角さんのためなんだよ、これは)
「はい!はい!」
(オレが打ちたいわけじゃないから)
「ええ!ええ!」
なんでもいいです!打ってくれるなら!
打って思い出してください、私がいなくてもヒカルは碁を打てるということ。
ヒカルにとっての碁はかけがえのないものでしょう?
私もそうだったのだから。
ねぇ、ヒカル
(まっすぐ碁の道を歩こうとしている伊角さんの気持ちはおまえもわかるだろ?)
「ええ!」
「お願いします」
「お願いします」
(佐為。伊角さんのために仕方なく打つんだからな、オレ)
ヒカル、大丈夫、わかっています。
(この一局だけはいいだろ?な?」
「ええ!一局と言わず、何局でも!」
(――佐為!答えろよ!)
ヒカル………
(どこ行ったんだよ、オマエ!)
「…ヒカル」
ごめんなさい。
声を届けられなくて。
でもここにいます。ねぇ、ヒカル、私はいつでも貴方のそばにいるんですよ。
以前と変わらない。あなたが振り向けば私はそこにいるんですよ。
ただ、見えなくなっただけ。それだけなんです。
ただ、それだけ――――

 

 

打ち始めたヒカルを見て、私はヒカルの周りを飛び回った。
ヒカルが打っている!
それだけで私は嬉しくて涙が出そうだった。
「佐為〜、じっとしてろよぉ」
要は苦笑しながら私に座るよう促した。
ヒカルの少し後ろに座って盤面を覗きこむ。
石が置かれるたびに嬉しさが込みあがってくる。
そして、まるで自分が打っているかのようにわくわくと楽しい!
「くすっ」
要が声を出して笑った。
「? どうかしました?」
「いや、佐為が」
「私?」
「本当に楽しそうに見入ってるから」
「え…」
「よかったな」
「…ええ!」
ヒカルが打っているのがこんなに嬉しい。
まるで久しぶりに外に出られた幼い子供のような、
ずっと待ちわびていたものを目の前にしたような、そんな感じの嬉しさと興奮。
(…………いけない)
え?
(ワクワクしちゃいけない!)
ヒカル…
(でも―――)
久しぶりの一局ですからね。きっと楽しいでしょう。
見ているだけの私だってこんなにわくわくするのですから。
次の一手を考えるのが楽しくて私はすっかり興奮していた。
(!)
おお!伊角さん強くなっていますねぇ!
(反発された…。サバキの筋に入ったがダンゴ石にされてオモシロクないけど…。キリが一本入るから形勢には響かねェ)
おおお…
「んー、さっぱりわかんねェなぁ…。佐為ぃ〜、後でルール教えてくれよ」
「ええっ!もちろんです!」
ぱちっ
(伊角さんの石が浮いた!これを攻めながら白石を裂いて出れば……)
そうですね、それから、それから!
それならこっちを連絡して、これを覗いてから繋げれば面白いですし、
ああ!楽しい!
(くそっ。攻め取りか)
伊角さん、すごくいい手を打ってきますねぇ
(………伊角さん、強くなった―――)
ええ
中国で、たくさん勉強したんでしょう。
ぱちっ
あ!
それなら!
(ここで右辺の白模様を荒せば…)
ここですねっ!
私は思わず手を伸ばして、扇子でいつものようにその場所を指した。
「ぁ…」

 

 

 

 

 

 

夢中で打ってた。
ワクワクしちゃいけないって思っていながら、
それでも強くなった伊角さん相手に手は抜けられないし、抜きたくなかった。
本当に夢中で、
ただの
白昼夢とかだったのかもしれない

(ここで右辺の白模様を荒せば…)

オレが碁石を持った手をその場所に運ぼうとした瞬間
見慣れた扇子がオレの手に重なった。
オレが石を置く瞬間、
その扇子はオレの置こうとしていた場所を確かに指した。
オレが石を置いた瞬間、それは消えてしまった。
ほんの、ほんの1、2秒の間だった。
でも、確かにオレには見えた。

驚いて後ろを振り返った。
(佐為――――?!)

 

今のは佐為の打ち方だった――

佐為の扇子が…オレには見えたんだ―――

佐為の、指した道が――――