それから私は以前と同じようにヒカルのそばについて歩いた。
学校でも、家でも、ずっとヒカルのそばにいた。
「悲しまない」
そう決めた私だったけれど、ヒカルと一緒にいると、どうしても悲しくなってしまう。
ヒカルは本当に碁を打たなくなってしまった。
手合いにもいかない。研究会にも行かない。
家でも碁も打たずに、ぼーっとしていることが多い。
ヒカルは、誰の目にもわかるほど元気がなくなっている。
一番それを感じているのは、ヒカルの母だろう。
何を話しかけても上の空ヒカル。そんなヒカルをどう扱ったらいいかわからないという顔をしている。
ヒカルだけでなく、周りの人にまで迷惑をかけてしまって、私はとても申し訳ない気持ちだった。
あんなに元気で明るいヒカルだったのに。
ヒカルが…こんな風になってしまうなんて
私はバカだ。
どうしてヒカルのことをもっと考えてあげられなかったのだろう?
消えるとわかっていながら、どうしてヒカルの「時間」を妬んでなんかいたのだろう?
どうしてもっと残りの時間を大切に使わなかったのだろう…
「ヒカル…」
ヒカルのことを考えていると、どうしても口にする。
『ヒカル』と。
こちらに戻ってきてから出来た口癖だった。
(佐為)
ヒカルを見るとベッドで寝転がって天井を見ていた。
ヒカルも、私の名前を呼ぶことが癖になっている。
口には出さないけれど、心の中で。何度も。
今ではヒカルの心が私に筒抜けだった。前は全てをわかるわけじゃなかったのに。
今はヒカルが考えていること、思い出していること、全てを知ることが出来る。
だから、心で言った私の名も、全部聞こえる。
ヒカルに呼ばれる度にどきっとする。
もしかしたら見えるようになったのではないか、と。私の声が聞こえたのではないか、と。
そんなわけがないのに…。
こんなヒカルはもう見ていられない。
以前のように笑って欲しい。
たとえ、その笑顔が決して私に向けられないとしても。
でも、どうしたらいいのだろう。
どうしたらヒカルは元気に笑ってくれるのだろう?
もう私の姿は見えないのに。声さえも届かないのに…

 

「要」
「ん?」
要は私のわがままに付き合ってくれて、私と一緒にヒカルについて歩いている。
要は帰って魅亜ちゃんを探したいだろうに。
どうして私なんかに付き合ってくれるのか、気になって聞いたことがあったけれど、なんとなく話を逸らされてしまった。
きっと言いたくないのだろう。
それがわかってからは、私は要にそのことを聞くのは止めた。
「要、私がヒカルに何かしてあげられることってないでしょうか?」
なんでもいい。
何か、何か…
「何言ってんだよ。佐為は十分してやってんじゃん」
「え?」
「こんなにそばにいて、見守ってんだぜ?これ以上、どうするっていうんだ?」
それはそうだ。
どうしてもそれ以上はすることがない。出来ない。
でも、ヒカルに笑って欲しいのに。
見守るだけなんて…
「佐為、気持ちはわかるよ。俺だって、同じようだったんだから」
要は悲しそうに言う。
要も、同じ…?
「あっ!」
「?」
「あった!あるじゃん!やれること!すっかり忘れてた」
「え?何ですかっ?」
「あれだよ!あれ!」
そう言って要はすっと手を出した。
「あっ!」
思い出した。
あの力!
あの世界で、「死者の国」で、要が見せてくれた『力』。
葉を自由に動かすことが出来た、あの力!
「あれ使えばいいんじゃないかなっ?佐為が見えてたってんなら不思議なことくらい起こっても平気だろ?」
要は嬉しそうに私を見た。私も嬉しくって笑った。
「やったよ!佐為っ。きっとヒカルも喜ぶっ」
要ははしゃぎ回って私をばしばしと叩いた。
「痛いですよ、要」
「あ。ごめん。つい嬉しくて」
そう言ってぽりぽりと頭を掻く要が嬉しかった。人のことなのにそんなに喜んでくれる要が。
「ありがとう、要」
「んだよ〜。俺なにもしてないじゃん。提案しただけ」
それだけで私にとっては感謝してもしきれないくらい嬉しいことだった。
ヒカルに何かしてあげられる!
あ…
私が何をしようか、と考えようとした時、思い出した。
私はあの力が使えない。
「どうした?佐為」
突然固まってしまった私を見て、要は声をかけてくる。
「私は、力を使えないから」
「あ、そっか。そうだったっけ」
要もすっかり忘れていたらしい。
「俺が変わりにって言いたいけど…俺、葉っぱを浮かせることしか出来ないんだよな。そっか。どうしよ?」
私はかっぐりと肩を落とした。
何かヒカルにしてあげられるチャンスだったのに…
「ごめんっ、佐為。ぬか喜びさせちゃって…」
要は申し訳なさそうに頭を下げた。
「いいんですよ。私が練習したらもしかして力が使えるようになるかもしれませんしね」
そうだ。もしかしたら私も力を使えるかもしれない。
「うん。わかった、佐為。練習して使えるようになろっ!大体、普通は使えるもんなんだし!佐為だって使えるよ!…でも、ごめんな。俺がもっと力を使えたらなぁ。俺は何か昔から人が出来ることが出来ないんだよな。本当、役に立てなくてごめんな」
「いいんですよ。要は精一杯、私を助けてくれてます。それにヒカルのことは、自分の力でなんとかしたいです」
「そっか。うん、そうだな」

 

それから、私と要はヒカルの授業中に校庭で力を使う練習をした。
要が言うには『力』は自然に使えるようになったらしく、練習方法がよくわからなかった。
それでも頑張って神経を集中させ、葉を動かしたりしようとした。
要も、「俺も手伝えるかもしれない」と言って『力』を使う練習に付き合ってくれた。
しかし、2人とも何の変化もなかった。
今日も何の変化もないんでしょうか…
ふぅ…
私はため息をついて校舎の壁の時計を見上げた。
もうそろそろヒカルの授業が終わる頃ですね
そう思って要に声をかけようと要を見たら、要は一生懸命『力』を使おうとしていた。
ず…
要の視線の先にあった小石がずずずと少しずつ動いていく。
私は驚いて要を見た。要はまだ小石に集中して、動かしている。
すごい。葉しか動かせないと言っていたのに
と、力つきたのか、要の体がふらっとよろめいた。倒れるかと思ったが要は足を踏ん張り持ちこたえ、小石をじぃっと見つめて、次に私の方に振り返った。
「見たっ?」
「ええっ!すごいです、要!動かせたじゃないですか!」
「う、やった〜〜〜〜っ!!佐為っ!やったよ!」
要は嬉しそうに飛び跳ねながら小石を見た。
「動かしたよなぁ、オレが…。やったよ〜〜」
要は信じられないと言う顔をしてまた小石を見た。そしてにっこりと笑って私を見た。
私が「よかったですね」と言うと要は嬉しそうに頭を掻いた。
その時、ざわざわと校舎から生徒達が出てきた。もう下校の時間のようだ。
「わ、佐為!」
「ええ」
私達は喜びに浸るのもそこそこにヒカルを迎えに行った。

私達がヒカルの教室に向かっていると、ヒカルはもう廊下に出ていた。
ヒカルと話している人がいる。あれは…
私はヒカルに駆け寄った。
「ヒカル?どうし」
「ちょっと三谷と打ってあげてくれない?」
私は足を止めた。
「三谷と?」
「大会参加でアイツ一生懸命なのに練習相手がいないんだ。アタシじゃ力不足でさ」
私は少し期待した。ヒカルが頷くのを。
打つと言うのを。
でもすぐにヒカルによって打ち砕かれた。
「―――悪いけど」
「なんでよ」
金子さんが言った言葉は私も言いたい事だった。
ヒカル、打って。
「金子っ」
その時、大きな声が廊下に響いた。
「くっだらねーこと頼んでんじゃねーよ!こんなヤツに来られたらめーわくだっ!」
「アンタのためだけに頼んだんじゃないよ。進藤がアンタと打てばアタシは夏目や小池と打ってあげられるじゃない」
「どうしたの?!金子さん?!三谷くん?!ヒカル?!」
あ、あかりちゃん
「みんな一生懸命なんだからさ。そう思ったんだけど、まァ、でも三谷がこうじゃしょうがない」
金子さんは手をあげて言った。
「囲碁部は囲碁部で頑張ることにするよ。悪かったね、じゃ」
ヒカルは踵を返すと歩き出した。
私は後ろを振り返りながらヒカルの後ろに続いた。
「いいんですか?ヒカル」
「ヒカル!」
後ろを振り返るとあかりちゃんが言った。
「ねっ!大会は来週の日曜なの!応援くらいきてよ!」
「藤崎っ」
ヒカルは振り返らずに歩いた。
私は何もヒカルに言えなかった。どうせ聞こえないとしても、何も…。
「ヒカル…」
私は歩きながら言った。
「行きましょうね、応援。ね?ヒカル」
ヒカルは何も返事はしてくれなかった。
でもなんとなく、ヒカルは行くような気がして私はほっとした。
私は隣を歩く要を見た。
要は目で「大丈夫?」と訴えてくる。
私は笑って言った。
「来週の日曜が楽しみですね」
すると要は何もかもわかったという顔をして笑ってくれた。

 

 

 

「早く!ヒカルっ!早く行きましょうよ!」
私はヒカルを急かした。
ヒカルは門の前をうろうろしている。
今日は日曜日。囲碁部の大会の日。
「ヒカルってば優柔不断だなー。ここまで来たら覚悟決めろって〜」
要も呆れた様子でヒカルに話しかけた。
聞こえないし、見えなくても、一緒にいたので要にとって、ヒカルは友人のような感じなのだろう。
「ヒカル〜っ。早く〜っ!」
私は早く碁を見たくてうずうずしていた。
こちらに戻ってきてから、碁を見ることがなかった。
ヒカルが碁を打つことがなかったから。
だから私は早く見たくて見たくて堪らなかった。
ヒカルも…もしかしたら碁を打つ者の姿を見たら、自分も打ちたいと思ってくれるかもしれない。
そう淡い期待も持っていた。
「もう始まった頃だな」
ヒカルは校舎を見上げて言った。
「そうなんですよ!もう始まっているんですよ!だからヒカルっ!早くっ!」
「…………」
ヒカル〜、何を考えることがあるんですか〜。
私は早く見たいです〜。
ヒカルは意を決したようにごくっと息を呑むと言った。
「打たねェんだから、オレは。佐為。見るだけだから」
ヒカルは碁に関わることさえもダメだと自分で言い聞かせていたのだろうか?
言い訳を言いながらやっとのことで校舎に入ってくれた。
校舎に入るとヒカルは緊張していて、ヒカルの心臓の音まで聞こえた。
私にも緊張が移って私は一人あたふたとしてしまい、要が不思議そうに私を見た。
「どうしたの?」
「いえっ、何でも」
大会会場につくとヒカルも私も緊張なんて吹き飛んでしまい、私は嬉しくて逆にそわそわと動き回った。
(あかりだ。真ん中に座ってる…アイツ副将なんだ)
「え?どこですか?」
ヒカルが見ていた方を見るとあかりちゃんが座っていた。たしかに副将の席に。
「佐為?」
要が不思議そうに私を見ていた。
「なんですか?」
「えと…今、え?」
「?」
私は首を捻った。要は困ったように頭を掻いた。
「今、何か言ったじゃん。誰に言った?オレ?」
「え?」
あ、今の?
そうか
「要に言ってませんでしたっけ?ヒカルの心の声が聞こえるって」
「え?!」
要は目を丸くして驚いた。
「やっぱり言ってませんでしたか?すみません、私にとっては当たり前のことだったのでつい」
「聞いてねーぞぉ」
要は恨めしそうに私を見た。私は笑って誤魔化すとヒカルに目を戻した。
ヒカルはあかりちゃんの対局を見てるようだ。
私は駆け寄ってあかりちゃんの対局を覗き込んだ。
(簡単な死活だ…あわてるなゆっくり考えろ)
ヒカルの声が聞こえた。
あかりちゃんが石を置く。
(うん)
ふふ、ヒカル、やっぱりあかりちゃん達が心配だったんですね
あかりちゃんの対局を見るとあかりちゃんが以前より強くなっていることが伺えた。
「あかりちゃんも強くなっているんですね」
「!」
(三谷)
「え?」
私が顔をあげるとヒカルは三谷を見ていた。
「ヒカル…」
!!
その時ヒカルのビジョンが私の頭に飛び込んできた。
ヒカルが三谷と筒井さんと大会に出た時のビジョン。
ヒカルが逆転勝ちした時の嬉しそうな顔。
――ヒカル
打ちたいのでしょう?
(思っちゃいけない)
ヒカルは自分の手を見て言った。
(打ちたいって思っちゃいけない!)
ヒカル、いいんですよ。打っても。ねぇ、ヒカル?
「進藤くん――」
声のしたほうを見ると、海王の先生がいた。
ヒカルはそれに気が付くとすごい勢いで教室を出た。
「あ!」
私はヒカルを追おうとした。しかし、後ろに要がいない。
「要っ?!」
教室を見ると、碁盤に釘付けになっている要がいた。
「要っ!ヒカルがっ!」
そう叫ぶと要が慌てて立ち上がって駆けて来る。
「行きましょう!」
私が走り出すと要が後ろから付いてきながら言った。
「ヒカルって本当せっかちだよな!俺もうちょっと見たかったのに!」
私も見たかったのに…
私は苦笑しながら要を急かした。
ヒカルは門の前に立っていた。
まるで私達を待っていてくれたみたいに見えて、私は嬉しくなった。
(オレが打ちたいって思ったりしたら、もしオレがまた碁を打ったら)
ヒカルは空を見上げていた。
(佐為は2度と戻ってこない。そんな気がする)
「……」
だからヒカルは打たないんだ。
私に帰ってきて欲しいから打たない。
でも
でも…
私は帰ってきているんですよ、ヒカル
私も空を見上げた。
空は悲しいほど綺麗な青をしていた。