もう、どれくらいの月日がたっただろう。
いつだって彼のことを考えてきたけれど、いつの日から変わったのだろう。
昔は、彼と最後に打った日を覚えていた。
でも、彼を好きになった日は、とても曖昧な記憶だった。
それは何故なんだろう。
月日がたちすぎてしまったからなんだろうか…。
今日も進藤と僕の家で打つことになっていた。
もう緊張することなんてなくなったけれど、僕が進藤を好きだと自覚したての頃はよく緊張していたのを覚えてる。
緊張が悟られないように、必死で打ったり、言葉も仕草も何もかも気を使って、
でも僕も自分がこんなに嘘が上手いとは思っていなかった。
案外嘘なんて誰も見破れないのかもしれない。
すごく緊張していた僕に、進藤はいつものように笑っていた。
当然だった。変わったのは僕の心で、それ以外はいつもとなんら変わりはなかった。
ピンポーン
「おじゃましまーす」
進藤はいつからか、僕が玄関に出て行く前に上がりこむようになった。
別に問題もないからそれ以来はチャイムは「来たぞ〜」と言う合図になった。
「久しぶりだなー」
「そうだね。この前のイベント以来か」
「そうそう」
僕らはスケジュールが詰まっていてお互いがあいている日を探すのは大変だった。
仕事の後なんかに時間を見つけては打っていたけれど、
いつからかお互いの家に泊まって打ち続けるなんてことが日常になってしまった。
それこそ僕にとっては大変だった。
一緒にいられる、碁が打てる。それは正直に嬉しかった。
ただ、うっかり口を滑らせそうで、態度で示してしまいそうで、怖かった。
浮かれそうになる気持ちを抑えて、いつものような態度を取るように気をつけていたっけ。
寝る部屋を別々にしても進藤が「一緒に寝ようぜ」とか無邪気に笑うから困った。
こういう時、どうやって断ったらいいのか僕にはさっぱりわからない。
君と一緒にいたくない、なんて言ったら彼が傷つく。
そのまま僕は言い訳を思いつかず、進藤の言うことをしぶしぶ聞くことになった。
しぶしぶ、なんて微塵も感じさせなかった自信はあるのだけれど。
「おい、搭矢、何ボーっとしてんだよ」
「ああ、ごめん、打とうか」
「おう」
いつもと変わらない、僕らの日常だった。
打ち始めると碁石が盤に打たれる音しかしない。
僕らが打つ時、大抵二種類の打ち方になる。
本気で打つものと、もちろん本気だけれどいつもと違う打ち方を試したりして穏やかに打つものと。
それは打ち始めてからその場の雰囲気で決まっていく。
今日は進藤がのんびりと打っている様子だ。
僕もゆっくり打ちたい気分なので、ちょうどよかった。
のんびりと言っても、進藤はいつも面白い手を打ってくるし、僕もそれに相応する手を返しているつもりだ。
それが今日は様子がおかしいことに気がついた。
まだ序盤でまだわからないが、なんとなく気が抜けたような碁だと感じた。
進藤の顔を見てみたが、別に変わった様子が見られない。
もしかしたら、進藤お得意の手なのかもしれない。よく彼は意味のない手に見せかけてすごい手を打ってくる。
僕が慎重に石を置いていったからか、それからの進藤の手は別段変化もなく、少し気の抜けた炭酸ジュースのように終盤を迎えた。
進藤の顔をもう一度見た。
今度は彼と目が合った。
進藤は少し苦笑いして言った。
「俺の負けだよな」
こういう言い方を進藤はあまりしない。
「…そうだね。もしかして何かあった?」
具合が悪かった、とか?
「わりぃ、ちょっと考え事しちゃった」
一瞬、ムカッと来た。
考え事?
「ごめんって。本当悪かったと思ってるよ」
顔に出たのだろうか、進藤は慌てて手を合わせて謝った。
こういう時は何故か感情が表に出る。進藤をあまり意識していないので気が緩むのだろう。
「そんなに大事な考え事か?」
ちょっととげとげしく言ってやる。
「大事って言うか…、頭から離れなくて…」
少し、いや、かなり嫌な気分になった。
いろんな不の感情が混ぜこぜになったみたいだ。
折角の時間なのに、と思った。
「あのさ、ちょっといい?」
「何がだ?」
進藤は僕より背が少し高いくせに、肩を少し竦めて首を傾げて上目遣いで僕を見た。
こういう時、どきっとする。
甘えたような進藤の目が、僕には心臓に悪い。
「話、相談あんだけど」
「何?」
「あのさー…、おまえ好きなヤツとかいる?」
「え?」
僕は驚いて進藤を見て、制止してしまった。
「好きなヤツ、いる?いない?」
「え、いる…けど」
こんな話今までしたことがなかったが、別にいると答えても問題ない…。
ただ、僕はすごく動揺した。
「ふーん…」
進藤は興味があるのかないのかわからない様子で返事をした。
「何故?相談と何か関係でもあるのか?」
受け答えは、どんなに動揺しても出来るつもりだ。
ただ、進藤に好きな人が出来ていて、それの相談だったら、僕は冷静でいられるだろうか?
「まぁ、一応あるよ」
「一応って何だ」
微妙な返事をするな。
「この前のイベントの打ち上げさぁ」
進藤は僕の質問に答えなかった。
彼には時々こういうところがあった。
「オマエ結構飲んでたよな」
この前のイベントの打ち上げ…
「ああ、確かに結構…飲んでた」
「覚えてる?」
「え…?」
「飲み終わって部屋に帰ってから、俺と打ったの覚えてる?」
打った?進藤と?酔っ払って?
「……覚えてない」
「いっこも?」
「いっこもって…」
僕は思いだそうとした。
打ったんだろうか?
僕はゆっくりとあの日のことを思い出した。
イベントが終わって、大勢の参加棋士と打ち上げに行くことになった。
もちろん進藤も一緒で。だから行く気にもなった。
地方のイベントで夜遅くまでだったので、棋院が現地にホテルを取ってくれていた。
だから皆急いで帰らずに飲みに行く話が出たのだ。
僕も次の日は仕事が入っていなかったので行っても支障がなかった。
飲み屋に行って、皆で飲んで、結構な数のお酒を飲んだ。
僕はお酒に弱いタイプじゃなかったので、それなりに飲んだ。
飲みすぎたと自覚はしていた。少し浮かれていたのかもしれない。
でも記憶がなくなるまでとは…
そうだ。進藤と部屋に帰って…
「そうだ、飲みなおしたな」
「ああ」
進藤が足りないから付き合えと言って、断りきれずにまた飲んだんだ。
控えめに飲んでも進藤があんまり調子に乗って飲ませてくるから…
それで…、どうしたんだ。
飲んで、そこまでは覚えてる。
進藤と話をかなりしたような気がする。内容は覚えてないけど。
でも楽しくて、かなり気分がよかったのを覚えてる。
それから、そうか、打ったな。僕から誘ったんだ。
進藤は酔ってるんだし、意味ないだろって言ってたけど僕が強引に打ったら進藤がしぶしぶ打ってくれて。
「覚えてるけど、それがどうかしたか?」
「そん時喋ったこととかは?」
「え、そこまでよく覚えてないんだけど」
何かマズイことでも言っただろうか。
一瞬、進藤に自分の気持ちを言ってしまったのかと思ったが、
いくら酔っていたからってそんなことするはずがない。
それは自信があった。
「何かあったのか?」
「え?いや、たいしたことねぇからいいんだけど」
「何だ、気になるだろう」
いや、気にしてくれなくてもいいのに…
「俺の思い違いかも。俺ら酔ってたし」
「だから何が?」
「あー、いいって、もう。ほら、もう一局打とうぜ」
こういう言い方をしたら搭矢は絶対打ち出す。
搭矢の優先順位はいつだって碁だ。
ホントにあったことなんて言うはずないだろ。
…俺が搭矢に、キス、したなんて。
言えるはず、なかった。
俺も酔ってたけど、搭矢は俺が今まで見た中で一番酔ってるんじゃないかってくらいだった。
搭矢は酒には強い方で、でろんでろんになったり、ハイテンションになったりなんて、絶対にない。
ないから、見てみたいと思ってた。
だから、いつになく気分が良さそうに、しかもかなりの量を飲んでいる搭矢に酒を勧めた。
搭矢は自分が飲みすぎないようにいつも気をつけてる節があった。
だから、こんなに飲んでるんだから断るだろうって軽い気持ちで勧めてみたんだ。
そうしたら、搭矢ってば断ることなく飲むから。
まだ大丈夫なんだろうか?とか思いつつも、俺もまだ呑み足りなかったし、ちょうどよかった。
考えたら、断る思考が働かないくらい搭矢は酔っ払ってたのかもしんない。
俺も搭矢も絶対に酔っていた。
だから、俺ってば軽く、どっかの酔っ払いが言うみたいに言っちゃった。
「とぉ〜や、すっげ〜〜〜スキ〜」
そりゃ、マジで言えるわけない。
本心を混ぜた冗談だった。
搭矢は驚くでもなく、静かに笑った。
「ほんとーだぜぇ〜?信じてないなぁ〜」
絶対に気づかれたらいけないことだった。
俺が搭矢を好きだってことは。
でも、気がついて欲しかった。
だって、俺はもうどうしていいかわからなかったから。
だから、酔っ払ったフリして言ったんだ。いや、実際酔ってたけど、ちゃんと理性はあった。
でも言わないと、苦しかったから。
搭矢は俺に「信じてるよ」と返事を寄こした。
わかってんのか、わかってないのか。
俺にはわかんなかった。
「おまえ酔ってるなぁ」
「うん、でも君もだろう?」
「ん〜そうだな〜〜」
にへへ〜っと笑うと搭矢ににこっと笑い返してくれる。
それだけで妙に嬉しかった。
「もっと飲む?」
酒を指し出すと、搭矢は笑って受け取った。
「打とう」
「はぇ?」
「打とう」
搭矢が真剣な顔して言った。
「はぁ?いまぁ?」
「今。打ちたい」
「突然だなぁ」
「打とう?」
搭矢は首を傾げて無邪気な笑みを見せた。
う…
「でも酔ってるし、意味ないじゃん」
搭矢は俺の返事を聞かずにマグネット碁盤を出した。
搭矢はかってに黒を持ち、ぺちこんとへなちょこな音を出して盤にマグネット付き碁盤を打った。
「君の番」
強引だなぁ…
俺もぺちこんと白を打った。
酔いにプラスしてこの気の抜ける音が気分をよくさせた。
打ってると頭がクリアになってくる。
それに比べて搭矢は碁石の置き方がめちゃくちゃだった。
「おまえ、打つ気ある?」
「…ある」
俺の方はまったく打つ気がなかったから、搭矢のめちゃくちゃな碁にめちゃくちゃに返した。
それでも搭矢は満足そうに、にせものの碁石を盤に運んだ。
「楽しい?」
聞くと、搭矢は盤から顔を上げてすごく嬉しそうに笑った。
「ああ」
「…そか、よかった」
適当に盤に打ってたのが、いつのまにか俺は一手一手を考えてしまうようになっていた。
搭矢はまだめちゃめちゃだ。
「進藤」
「うん?」
「進藤ヒカル?」
「うん?何?」
「いい名前だな」
「そぉ?そりゃどーもぉ」
「うん、僕も好きだよ」
「は?」
搭矢はまた適当な場所に碁石を置いた。
幸せそうに微笑んで。
それで、俺に視線を寄こして、色っぽい顔して笑った。
色っぽく見えたのは、俺のスキって気持ちからの錯覚かもしんないけど。
俺はそれに見惚れて、
そう、言うなら搭矢の笑顔に酔った。
「搭矢、キスしたことある?」
「…?ないよ」
「しよっか?」
そうとう頭の中が沸騰してた。
だって、搭矢がかわいくて、それにあんなこと言うから、
期待した。すごく。
「…うん」
返事に驚く暇なんかなくて、俺は向かい合った搭矢の顔を引き寄せてキスしてた。
ゆっくりと離れて搭矢の顔を見ると、少し微笑んで、盤を指差す。
「君の番だよ」と搭矢は言った。
俺もキスで浮かれて、その後の記憶は曖昧だった。
パチン
碁石の音ではっとした。
「やっぱ、この音だよなぁ…」
「何がだ?」
搭矢は俺がぼぉっとしてたのを咎めるために強く碁石を打ちつけたらしいが、
俺は逆にあのへなちょこの音を思い出してしまった。
「ごめん、俺の番な」
「そうだ」
搭矢は静かに怒っていた。
やっべ〜
ふと気が抜けて、俺はいまいちよくない場所に碁石を置いてしまった。
やばっと思った時には搭矢はがたんっと音を立てて立ち上がった、気がした。
実際は畳だから音はしない。立ち上がってもいなかった。
「進藤っ」
実際は怒鳴られて、むなぐらをつかまれて睨まれていた。
「うぁ、ごめんって〜〜〜」
搭矢はふと顔を緩ませて、それから眉を潜めた。
「?」
搭矢の顔が少しバツの悪そうな顔になって、手はゆっくりと離された。
「搭矢?どした?」
俺がずいっと顔を近づけると、搭矢はぱっと後ろへ下がった。
「????」
搭矢の顔をよくよく見ると、顔がほんのりと赤みをさしてる。
「搭矢?」
「ちょ、っと、水を飲んで来る」
搭矢が慌てて立ち上がった。
「ちょ、待てって!」
明らかにおかしい搭矢に、俺は少し焦った。
思い出した?とか。
「おまっ、思い出したっ?」
搭矢は出て行こうとしていた足をぴたっと止めた。
素直なヤツ。
「……えと」
どうしよう、何て言えばいい?
本気だって伝えるべきなんだろうか?
それとも冗談で済ますべき?
今ならどっちでも出来そうだけど。
「搭矢」
「搭矢」
「………」
そんな困ったような声を出されても、僕だって困る。
「搭矢、俺」
何も言うな!
「進藤」
「…何」
なんで思い出したんだろう。
いや、なんであんな態度とってたんだろう、僕は。
酔ってたって言える状況だけど。
きっと気が緩んでた。
もうこんなことがあっちゃダメだ。
「思い出したんだろ?」
「……ああ」
酔ってたんだ。
そう言おうと思った。
「俺、本気だからな」
―――え?
僕が思わず振り返ると、あの時とは違う、真剣な進藤がそこにいた。
「嘘…じゃ、ねぇから。酔ってただけでもないから」
驚いて何も言えないでいると、進藤はじれったくなったのか、恥ずかしいのか、顔を赤くした。
「俺ちょっと、じゃなくて、かなりっ、期待してるんだからなっ」
「……」
「何か言えよっ」
「…進藤ヒカル」
「…な、に?」
「いい、名前だな」
少し笑ってそう言った。
進藤は目を丸くした。それから少し納得のいかないような顔をして、
それから少し笑って言った。
「…そりゃ、どーもぉ」
うん、僕も好きだよ
たぶん、伝わってる。
ありえないくらい恥ずかしい気がするのは久しぶりに書いたものだからだろうか?
キレる進藤が…スキかも。(子供っぽくて)