私はずっと待っている。
あの打ち手を。あの時のような素晴らしい一局を。

私は碁盤の前に座ろう。
あの打ち手はやってくる。何故ならあの打ち手もそれを望んでいるのだから。

そう、間違いない。
再戦の日は近い。

だから私はここにいるのだ。
キミを待つために。キミを向かえ、戦うために。

来い。
私の準備は出来ている。
後はキミが座るだけだ。
私の前に。

 

 

 

 

 

ゴールデンウィークを使って、久しぶりに日本に帰ってきた。
やはり、我が家は落ち着くものだと感じさせられる。
明子も「我が家が一番ね」と笑っていた。
アキラも少し見ないうちに大きくなった気がする。
もちろん背丈などではなく、目に見えないもの、だ。
成長したのは心だろうか、碁の力だろうか。
帰ってきてすぐにしたことはアキラとの対局だった。
明子は呆れたように「まぁまぁ、帰ってきてまで打つんですねぇ」と言う。
帰って打つことは当然、明子だってわかっているのだ。
「少しは体を休めろ」ということなのだ。わかってはいるがそれは私にとっては二の次だ。
アキラと打つのは久しぶりだ。
ネット碁もあるのだが、出来れば碁石を持ちたいという意思から、アキラとはネット碁はしていない。
他の棋士とも、よほどの事がない限りはネット碁はしていない。
だからアキラとの一局はとても楽しみにしていたのだ。
アキラの棋力は当然のごとく上がっていた。
親としては嬉しいことこの上ないことだ。
「強くなったな」
そう言うと、アキラは少し微笑んで言葉を返してきた。
「お父さんも強くなってますよね。やはり中国は勉強になりますか?」
確かに、自分でも以前より強くなっていると自負している。
それはあの打ち手との再戦のためだ。
アキラは今度中国に行ってみたいと言う。碁の勉強をしてみたいと。
来年のゴールデンウィークにはアキラが私に会いに来ると言った。
私はそうか、と返した。アキラも忙しい。本当に来れるかもわからないが、そう言われると嬉しいものだ。

私はこのゴールデンウィークにしたいことが一つあった。
明子にも、アキラにも言ってはいないが、そのために帰国したと言っても過言ではない。
「アキラに頼みたいことがあるんだが」
「何ですか?」
「進藤くんを、ここに連れてきてくれないか」
「…進藤…を、ですか?」
「ああ」
アキラは私をじっと見つめた。
ここまで言えば、アキラも私のしたいことがわかっているだろう。
アキラは何かを探るように私を見つめた。
「進藤に伝えますが…、彼が来るかどうかはわかりませんよ」
「5分でいい。必ず来て欲しいと伝えてくれ」
「…わかりました」
アキラは私の真意を追求するようなことはしなかった。

 

 

 

彼が家に来ることになったのはアキラが伝えた日、すぐだった。
アキラと彼が一緒に帰ってきたのだ。
私がアキラに頼んだのは帰国した日。アキラが彼に伝えたのは次の日。
私が思ったより早く事が進んでいた。
彼は私の部屋に通されると、緊張した様子で正座をして私をじっと見た。
いい目だと思う。彼の棋譜は見ている。いい碁を打っている。成長も目覚しい。
「急に呼び出してすまなかった。時間は大丈夫なのかね?」
「え?あ、大丈夫です。オレ、今は一人暮らししてますから…」
「そうか。時間があるなら夕飯も食べていきなさい」
「え?で、でも…」
私は立ち上がると、台所にいるはずの明子に声をかけた。
「明子、進藤くんの夕飯も出来るだろう?」
「ええ、私もそのつもりでしたよ。一局打つんでしたら早くして下さいね。折角の料理が冷めますから」
「ああ、わかった」
私は部屋の隅にあった碁盤を運ぼうとした。
すると、進藤くんが慌てて立ち上がった。
「オレがやりますっ」
彼は素早く碁盤を持ち上げて部屋の中央に運んだ。
「ありがとう」
お礼を言うと、彼は首を振って言った。
「いえ」
彼はまだ緊張している様だった。
まぁ、打ち始めたら変わるだろうと思う。
「では一局お願いできるかな?」
「…はい」
彼は私を真っ直ぐに見据えて返事を返してくれた。
「互い戦でキミが黒番で、いいかね?」
「はい」
碁笥を脇に置き、碁石を持った瞬間、彼の目つきが明らかに変わる。
碁打ちの目だ。
このようにいい碁打ちの目をした者の前に座るのは気持ちがいい。
それが強い相手であっても、弱い相手であっても。
彼は当然、前者の方だ。
私の望んだ対局は静かに始まった。

 

やはり棋譜を見るのと打つのでは違う。
彼は強い。以前より断然強い。
話ではアキラとよく碁会所で打つようだが、アキラも進藤くんと打つのは楽しいだろう。
よい友人が出来て安心する。アキラは碁ばかりだったからな。
「…負けました」
彼は悔しそうに顔を歪めて言った。
「ありがとうございました」
挨拶を済ませ、私が声をかけようと顔を上げれば、彼は盤面を睨みつけ、何かをもんもんと考えている。
私は声をかけるのを止め、彼の気が済むまでずっと彼を見ていた。
彼は暫く盤面を睨み続け、納得したかのように、ふうと顔を緩めた。
「もういいかね?」
私が彼に問うと、彼は慌てた様子で「はい」と返事をする。
「キミも強くなった」
「…も?」
「ああ、アキラも強くなっていたからね」
「搭矢とは…ネット碁とかしなかったんですか?」
「やはり碁石の感触がないのが好きではないからね」
私が笑うと、彼も少し笑った。
「進藤くん、いい一局を打てた。ありがとう」
私がそう言うと、彼は困ったように首を振り、「オレもいい勉強になりました」と言った。
「もう一つ、キミに頼みたいことがあるんだが、いいかね?」
彼は少し目を見開き、それから顔を曇らせた。
「…オレに出来ることなら…」

「saiと打たせてくれないか」
彼は私から目を逸らし、俯いてしまった。
「あの…」
彼は手を握り締め、声は僅かに震えていた。
「佐為は……」
その時、開け放っていた窓から心地のよい風が吹いた。
「佐為は死んでしまったんです」
彼の声は風に溶けてそのまま流されてしまったかのように、自然に消えていった。
「亡くなったのか」
「すみません…。オレが…」
「キミが謝る必要はないだろう。私こそ、嫌なことを思い出させてしまったね」
彼は俯いたまま、首を横に振る。
「オレが…もっと早く、先生と連絡を取っていたら…。すみません」
彼はとても苦しそうに話す。
「進藤くん、もう一局打てるかね?」
彼が驚いたように顔を上げる。
彼の顔は今にも泣き出しそうな子供のような顔だった。

 

 

あの打ち手が亡くなった。
それでも私には実感がない。その人物に会ったことがないからなのか?

それより、亡くなったと知った今でも、
再戦は必ずある、と強く思えるのは何故なのか。

 

 

彼は何事もなかったかのように碁を打ち、夕食の時も別段変わった様子は見せなかった。
私の言葉で彼が落ち込んでしまったのではないだろうか、という考えは杞憂だったようだ。
彼はアキラとも一局打ち、それから帰ることになった。
私とアキラが玄関まで見送る。
「じゃ、また明日な、搭矢。あ、おばさんに夕飯おいしかったって言っておいて」
「ああ、伝えとくよ」
2人は笑顔で挨拶を交わした。
それから彼は私に向かい直る。
「先生…、いつ中国に行くんですか?」
「ゴールデンウィークいっぱいはいるつもりだよ」
「5日…、日本にいる、ってことですよね…?」
「…5日の昼に発つ」
そう言うと、彼は少しだけ笑い、安堵の表情を見せた。
「今日はありがとうございました。先生と打ててよかったです」
「いや、私こそ急に呼び出したりしてすまなかったね」
彼は急に泣きそうな顔になった。
あの時、彼が顔を上げた時のような。
「本当に、すみませんでした」
彼は素早くお辞儀をすると、だっと駆け出した。最後に振り返ってアキラに手を振って門から出て行った。
アキラも私も呆然と彼を見送った。
「お父さん、進藤が何かしたんですか?」
「いや」
アキラは私をじっと見つめる。
「聞いてもいいですか?」
「何をだ?」
「今日、進藤と何を話したか」
「おまえが聞いてどうする?」
そう言うと、アキラは何かを言いたげだったが、くるりと踵を返し、家に向かう。
アキラは諦めてくれたようだ。
察しがいい子でよかった。
私もアキラに続いて、家に入った。

 

 

私は、もうあの打ち手との再戦は出来ないのだろうか

あんなにも強い相手と、

もう二度と―――?

 

 

日本での時間はあっという間にすぎていった。
緒方君や芦原君と打ち、倉田君も来てくれた。
あまりにも私が打ち続けるので、明子が「今度は長期休暇を貰ってから来ないといけないわね」と笑った。
確かにゆっくりとしたいという気持ちがなかったとは言わないが、
こうして碁に明け暮れるのはやはり落ち着くのだ。慣れ親しんだ家で打つことが。
そうして碁を打っていたら、時間はあっという間になくなってしまった。
私は明日中国に戻る。
五日などあっという間だ。
明子の言う通り、今度はもう少し長く日本にいられるようにしてみよう。

「お父さん」
襖の向こうからアキラが声をかけてきた。
「入りなさい」
アキラは部屋に入ってきて、碁盤の前に座った。
私は、一人で棋譜を並べていた。
「まだ寝ないんですか?」
「ああ、眠くなくてね」
アキラはそれを聞くと、盤面に視線を落とした。
それからすぐにその棋譜がいつのものだかわかったようだった。
「何故、これを並べているんですか?」
「意味はない」
意味はない。ただ、これを並べたかった。
私と sai の一局。
日本で打った、大切な一局だ。
もう一度、大切な一局を日本で打ちたかった。
だから、私は帰国した。
しかし、それは叶わぬのか。
「アキラ、一局打つか?」
「…はい」
私はアキラと一局を打った後、saiとの対局をもう一度並べてから就寝した。

 

 

 

 

いつも思っているのだ。
キミと共にに素晴らしい碁を打つのを。
それを願い、それのために私は鍛錬を重ねているのだ。
ただ、それだけの願いさえ―――

パチ

パチ

パチ

繰り返される碁石が盤に打ち込まれる音。
振り返ると、そこには碁盤に向かう一人の男がいた。
着物を身につけ、烏帽子をかぶった、不思議な雰囲気を纏った男が。
その男は碁盤に向かい、一人棋譜を並べていた。

パチ

静かすぎるくらいの空間に碁石の音だけが響く。
その男は私に気がつかぬのか、碁盤を見つめて石を置くことを繰り返す。
何か、不思議な空間だった。まるで、夢の中のような、この世ではないような。
私は碁盤に刻まれる対局を見るために一歩踏み出す。
すると、男が顔を上げ、私を真っ直ぐ見つめた。
男は少し驚いたような表情を見せ、それから少し微笑んだ。
もう一歩足を踏み出すと、男は碁石の形を崩し、碁笥にしまい始めた。
そして、碁石をしまい終わると、男は顔を上げ、私に言った。
「一局打ちませんか?」
私は何も考えずに返事をすると、彼の前に座った。

彼と対局していると、彼が誰なのかわかった。
私が驚いて顔を上げ、彼を見ると、彼はにっこりと微笑んだ。
「キミは…sa」
「言わないで下さい」
「…何故?」
「お願いです」
私が口を閉じると、彼はほっとしたような表情をし、対局に集中した。
私も、この話題に触れるのは一時止め、集中することにした。

もしこの者が「sai」なのだとしたら、私も本気で打たねば勝てないのだから

彼との対局は激戦であった。
ずっと半目を争う形で盤面は進み、最後の最後に彼に持って行かれた。
一目半の負けだった。
とても素晴らしい一局だった。
以前よりも、もっと高度な一局だと思える。
間違いなかった。彼は「sai」なのだ。
彼は愛しそうに碁盤を眺めていた。
その対局を目に焼き付けるように。
「キミと再戦をしたいと思って帰ってきた」
彼は盤から顔を上げ、私を見た。
「打ててよかった」
彼は嬉しそうに微笑んだ。
「再戦を望んでいたのは私も同じです」
「何故、表に出てこない?今はネット碁にも現れていないそうじゃないか」
「………」
彼は困ったように笑う。
「それに、進藤くんが…キミは亡くなったと話していた。連絡をしていないのか?」
「私が誰だか…おわかりですか?」
彼は静かに聞いた。
「…sai、だろう」
彼は嬉しそうな、寂しそうな、複雑な顔をして笑った。
「ええ。ところで、ここはどこか、ご存知ですか?」
「ここ?」
私は辺りを見回した。
知らない場所だった。
私の家に似ているが、違う。
私の表情を見て、彼は寂しそうに笑った。
「知らないでしょう?ここは私の家ですから」
「キミの?」
私はいつのまに彼の家にあがっていたのだろう。記憶にない。
「…ヒカルが言ったことは間違いありませんよ」
彼は私を真っ直ぐに見つめて微笑んだ。
それは全てを受け入れた者の目だった。
「私は死んでいますから」
「…どういうことだ。キミは私の目の前にいるではないか。キミは幽霊だとでも言うのか?」
彼は答えずに、ただ困ったように微笑むだけであった。

「幽霊を信じませんか?」
「…見たことがないからね」
「私は幽霊ですよ」
彼は真剣な眼差しで私を見た。
それは嘘をついているようには見えなかったが、それでも信じるわけがなかった。
彼は全然幽霊を感じさせないから。
あえて言えば、風貌が現代では考えられないものだと言うくらいで。
「もう時間がないですね」
彼は何を見るでもなく、ぽつりとそう言った。
「用事があるということかね?」
彼は首を振り言った。
「あなたが帰らなければいけない時間です」
「私が?そういえば、今は何時かね?時計が…見当たらないのだが」
飛行機に乗り遅れたらそれは大変だし、明子に言って出てきた覚えがないから心配をかける。
「大丈夫です、そういう意味ではないので」
私には意味がわからず、首を捻る。
彼は少しだけ笑う。
「楽しかったです。ありがとう」
「いや、私も」
「ヒカルに、このことは話さないで下さい」
私は驚いて聞き返した。
「何故だ?彼とキミは友人ではないのか?」
「ヒカルには私から話しますから」
ああ。
私は納得して、頷いた。
彼がほっと一息ついた時、彼の体が突然透けた。
彼の向こうの風景画見えるのだ。
私は自分の目を疑った。
私が彼を凝視していると、彼は自分が透けていることに気がついたらしい。
「驚かなくてもいいですよ。私は幽霊なのですから」
「そんな…バカな」
「ちゃんと見たんですから、信じて下さいね」
彼は茶目っ気を含んだ目をして笑った。
彼はどんどん透けていった。
信じられなかった。しかし、目の前には今にも消えそうな彼がいる。
「また、いつか…あなたと打ちたいです」
そう彼は言った。
彼は本当に消えそうだった。
「さよなら」
「待ってくれ!キミの、キミの名はっ?!」
彼は目を見開き、にっこりと笑った。

「藤原 佐為」

佐為…?
さい、とは本名だったのか…?
彼は自分の名を告げると、音もなく消えた。
跡形もなく。
そこに人がいたということも感じさせないで。
ただ一つの証明は、彼と打った碁。
それが碁盤の上で、彼がいたことを証明していた。

 

 

 

 

目を覚ますと、見慣れた天井が目に入った。
夢…?
私は起き上がって、深呼吸をしてみた。
心臓がうるさく音をたてている。
私はそこでふと、頬を伝う涙を拭った。
私は…何故、泣いてなどいるのだ…?
彼は、
彼が消えてしまった。
彼はもういないのだ。
それが急に理解できて、再戦はもう二度と出来ぬのだと思って、
私は悔しかった。
彼にまた負けてしまった。
以前よりは強くなったと自負していたのにも関わらず。
彼もまた強くなっているから。
私は布団から出ると、彼と打った碁を並べてみた。
それは存在した。
私の夢が作り出しとはとても思えない素晴らしい一局が。
彼は存在した。
彼の言う、幽霊だとしても、存在したのだ。
今も、どこかで存在しているかもしれない。

「藤原…佐為」

彼の名を呟いた。

きっと、
もう一度、再戦の日が来るだろう。
必ずだ。
何故なら、キミは死んでいたかもしれないが、今日、先ほどまで私と打っていたではないか。
キミが幽霊だと言うのなら、待っていてもらおう。

私が強くなり、生を全うするその日まで。

 

 

 

 

 

ヒカルを差し置いて搭矢先生の話を書いてしまいました。
ヒカル、ごめん。
搭矢先生はヒカルに並んで、なんと言いますか…
佐為に憑かれているというか…
佐為が消えて可哀想なのはヒカルより搭矢先生な気がふとしてしまう時があるんですよね。
先生にとって佐為は最高のライバルであると思うんです。
ヒカルにとってのアキラのように。
その人が居なくなるのですから、きっと悲しいと思います。
しかもそれを知らないのはもっと寂しい。
知らずに、ずっと佐為を追うのかなと思うと、私も居た堪れないと言うか。
そんなこんなでこの話。