「ヒカル」
ヒカルの幼馴染のあかりちゃんの声で、私たちは一斉に振り返った。
「明日、搭矢くんとの対局だね」
「なんで知ってんだよ」
「『週刊碁』みたの。今週の対局予定が載ってるじゃない」
ヒカルはそれに答えはせず、真っ直ぐ前を向いていた。
ヒカルの気持ちが伝わってくる。
明日の対局が迫って、気持ちが高ぶっている。
それが顔に表れていたようで、あかりちゃんは少し戸惑ったような顔をしてヒカルに聞いた。
「対局って、前の日からもう緊張するものなの?」
「なんで?」
「ヒカル、コワイ顔してたから………」
「…………搭矢との対局は特別なんだ」
「フーン」
ヒカルは真っ直ぐ前を見ていたから知らない。
あかりちゃんが、寂しそうな、複雑そうな顔をしていたこと。
「…………あかり、ちょっと時間ない?」
「え!?な、なに!?」
「一局打たねェ?おまえと打てばピリピリした気持ちが落ち着きそうだ」
あかりちゃんは驚いた様子でヒカルを見た。
くすっ
「ヒカルが打ってくれれば、う、うれしいけど私!」
「よし!じゃ、オレんち行くぞ」
「あかりちゃん、かわいーな。なんか」
要が笑った。
「ええ」
私も笑う。
「…………」
「どーした?」
「ヒカル、変わったね」
「そう?」
「うん、変わった。プロが板についてきたのかなァ。……大人っぽくなった」
「そうなの?佐為」
要が聞いてくる。
「ええ、そうですねぇ。少しは」
「おまえだって変わったよ」
「ホント!?どこが!?」
「背が縮んだ」
「ヒカルが伸びたんだよっ」
「ははっ」
そこで私が足を止めると、要は首を傾げた。
「佐為?」
「二人っきりにしてあげましょう」
「ん?うん、なんで?」
それに答えず、私はふわりと舞い上がった。
振り返ると、ヒカルとあかりちゃんが並んで歩いていくのが見え、要が慌てて追いかけてくるのが見えた。
「佐為っ、何?おまえも緊張してる?」
「……そうですね」
明日。
明日、私とヒカルは別れなければならない―――。

 

 

 

風を操る、という力が私に宿った後、急速に私は力をつけていった。
物も動かせるようになり、要と同じ事をなんとかこなすことが出来るようになった。
夢に入る、と言うのもやったことはなかったが、なんとなくこうするのだ、と感じ取れるようになった。
いつでも、ヒカルに自分の力で会える、そんな状態になった。
それでも要は決して私を急かさなかった。
その分、私はもう少しと思う気持ちと早くしなければという気持ちでいっぱいになっていて。
なんとなく踏ん切りがつかない自分が少し腹立たしいと思った。
ヒカル、ヒカル、私、
私は…
ヒカルは何も言ってはくれなかったけれど、
かわりに、碁を打ってくれた。
何局も、検討を加えて、毎日…。
それで思った。
最後に見るヒカルの対局は、
搭矢アキラとの対局にしたい、と。
「二週間後」そう知ってから1週間がたったその日に私は決めた。
「要、」
「んー?」
「私、…一週間後、ヒカルの対局を見たら…」
「うん」
「きっとヒカルに会えると思います」
「うん」
「そうしたら…帰りましょう」
「…うん。わかった」
帰る。この世界にはもういられない。
帰るべき場所に、帰る。
ヒカルと別れて―――

 

 

さぁぁっ―――…
風の音が聞こえて我に返った。
「佐為、いいの?もう、あんまり時間ないのに」
要は言いづらそうに言った。
「ええ…」
何故か、私の気持ちが高ぶると風が吹く。
現に今も。
風は緩やかに流れていくけれど、止まることはない。
「佐為が…やってんの?」
風の気配を感じた要が聞いた。
私が頷くと、要は少し笑ってから黙って私を待っていてくれた。
明日、
そうだ、明日は風が吹かないように我慢しなければいけませんね。
対局場で風など吹かないのですから。
そう思うと、今のうちに出してしまおう、なんて考える私がいて。
ああ、でも力は残さないと。
ヒカルに会いに行かなければならないんですから…
明日、今から明日までの時間が永遠のようにゆっくりと流れてくれればいいのに。
そう願わずにはいられなかった。

 

 

 

 

 

 

 

今日が始まる。
「いってらっしゃい」
「うん、行って来る」
ヒカルが開けたドアから眩しい光りと、小さな風が入ってきた。
ヒカルが歩き出す。私と要が後に続く。
朝の光が私たちを照らす。気持ちのいい朝。
さぁ、行きましょう!
天気と同じく、私の心も晴れやかだった。
風は、私には確認できなかった。

「和谷!佐木さん」
棋院についたヒカルがエレベーターを下りたところに2人が立っていた。
「進藤!昨日の夜伊角さんから電話があってさ、プロ試験合格したって!」
おお!
「ホント!?まだプロ試験何局か残ってるのに!?」
「ここまで全勝!昨日も勝って合格が決まったんだ」
まぁ、すごいですね
「伊角さんオレに『よろしく先輩』とか言うんだぜ。がんばんねーとな、オレも!」
「伊角さんってあれだよな!ヒカルんちに来た人!」
要がそう聞いてくる。
「そうです」
「よかったなぁ」
私は頷いた。
全勝。ヒカルとの対局でも思ったことだけど、彼もまた成長しているんですね。
よかったですね、ヒカル。いいライバルが増えて。
「伊角さん受かったんだ」
「真柴さん」
「長いこともたついてたのに」
「ましばっ…」
「プロに来たら上がってくのはえーだろーな。実力あるから、あの人」
「誰?」
要が聞いてくる。
「ええと」
「毎年毎年新しいヤツがどんどん来やがる。くそっ。今日は負けねェぞ、和谷!」
そう言って真柴は対局場に入っていった。
「和谷の相手、真柴さん?」
「ああ。おまえは搭矢だな」
「うん」
ガアッ
後ろでエレベーターの音がして振り返ると、越智と搭矢が下りてきた。
「………ない」
『搭矢』
ヒカルと搭矢はほんの一瞬視線を交わした。
搭矢は対局場に入り、ヒカルもそれに続いた。もちろん、私たちも。
「搭矢」
ヒカルは搭矢に声をかけた。
「やっと対局できるな」
「キミとの対局は囲碁部の三将戦以来…、2年4ヶ月ぶりだ」
「そんなになるのか」
…そうでしたか。2年…もう彼と打っていなかった。
「うん、長かった」
搭矢アキラ
私はもう二度とあなたと打つことはないかもしれません。
私を追ってきたあなたは、今度は追われる立場になり、
そしてきっとヒカルと並んで走ることになる。
だから、ヒカルを見て歩いていって欲しい。
けれど、私のことも忘れないで欲しい。最初に出会った進藤ヒカルも。
それは、私のわがままでしょうか?
「座間先生との一局、『週刊碁』で見たぜ。惜しかったな」
ヒカルと搭矢は碁盤に向かう。私たちも後に続き、碁盤の横に邪魔にならないように座った。
「途中、いい碁だったのに序盤の差が結局最後まで響いたな」
「元王座だ。1度の対局で倒せる相手じゃないさ。だが、2度目に対局する時にはボクだって今のままじゃない」
「座間先生や萩原九段との対局でおまえの力は見せてもらった。今日はオレの力を見せる番だ」
ええ、ヒカル!
「オレだって、2年4ヶ月遊んでたわけじゃねェよ」

ビーッ

「「お願いします」」

ヒカルたちの碁の展開は目を見張るものがあった。
打たれるそのスピードだけではなく、2人の力が凄まじくて。
ヒカルと搭矢の、本当の意味での初対局。
私が今まで邪魔してしまったから。
出会ってからどれくらいの時間がたったのでしょう。
ずいぶん遠回りをしたような、これが最善の道だったような、どちらともない思いだけれど。
ヒカルは打つ。
なんてぞくぞくする。気持ちが高ぶって風が吹いてしまわないかヒヤヒヤするところです。
碁石が盤に打ち付けられるたびに、私の中が満たされるような、そんな気持ち。

ヒカルの碁の中に私はいる。

ヒカルが出した、ヒカルの答え。
ああ、本当に、私はヒカルの碁になったのではないでしょうか?
だから、こんなにも満たされる、打って欲しいと願う。
ヒカルの碁の中に私はいるから。だから。
だから、ヒカルにはいつも私が見えているなら、
私、というヒカルの碁が見えているなら、それでいい。

ヒカルはずっと打ち続ける。
私もその中にずっと生き続ける。
ずっと、ずっと、

 

 

ビーッ

搭矢のカタツキで打ち掛けになり、ヒカルはその場で少し今後の展開を考えている。
周りのギャラリーは少し彼らの碁を見て、散っていった。
『オレがやや不利?』
ヒカルがそう思った。
「いいえ!ほんの少しの差です!まだまだですよ!」
『いや……ムズカシイけど、まだまだ」
「そうです!」
「おっと、メシだ、メシ!」
ヒカルは立ち上がった。
「搭矢、おまえメシは?時間なくなっちまうからオレ行くぜ?」
ヒカルが出て行こうとするので、私たちも続こうとした。

「……… sai 」

どくんっ
大きく鳴ったその音は、私のものかヒカルのものか…
「キミと打っていて、ネットの sai を思い出した」
搭矢…
「オレは sai じゃねえぜ。残念だけどな」
「…………キミだよ」
「搭矢?」
「もう一人のキミだ。もう一人いるんだ、キミが。出会った頃の進藤ヒカル。彼が sai だ」

私…
「碁会所で2度ボクと打った。彼が sai だ」
搭矢
「キミを1番知っているボクだからわかる。ボクだけがわかる。キミの中に…………もう1人いる」
搭矢―――
「……いや、なんでもない。おかしな事を言ってるな、ボクは……」
っ…
おかしくない。おかしくなんかないんです…っ
『搭矢が佐為を見つけた。今までオレしか知らなかった佐為を』
『佐為、搭矢がおまえを見つけた』
「…は、い」
多くを望んできた。
ヒカルだけじゃない。ヒカルを取り巻く人々までも巻き込んで私は存在してきた。
しかし誰にも存在を知らせる術などなかった。
しかし、彼は私に気がついてくれた。
小さく、強く、願ったこと。
ここにいること、いたこと、あなたと関わったことを
忘れないで欲しいと願った。
理解して欲しいと願わなかったとは言わないけれど、
現実になることはないと思っていた。
彼は、…どうして…
「………いや、キミの打つ碁がキミのすべてだ。それは変わらない。それで、もういい」
ヒカルの打つ碁がヒカルのすべて
「ええ、それで」
それでいいと思います。
ありがとう、搭矢。
「おまえには、―――そうだな。いつか話すかもしれない」
ええ、彼になら、
いつか本当のことを話して、納得してもらうのも、きっといいでしょう。
彼は信じてくれるでしょう。ね、ヒカル。
対局場を出たヒカルを、要が私を気遣いながら追った。
私は何だか心がいっぱいで動きが遅い。
「進藤!」
搭矢がヒカルの後を追う。
「どういうことだ?」
「な、なんだよ」
「やはりナゾがあるのか!話せ!」
「『話せ』だって!?やだね!おまえさっき、オレの打つ碁がオレのすべてだ、それでいいって言ったじゃねェか!」
ヒカルはエレベーターに乗り込む。搭矢も続く。
「佐為、早く!置いてかれるよ!」
「そ、それはそうだが………」
「なら、もう聞くなよ!」
「でも、今ボクには話すって―――」
「いつかだよ!いつか!ずっと先だ!バカ!」
「バ……」
エレベーターのドアが閉まるのを私は見送った。

「佐為…?」
私は笑った。
「待っていましょう」
ここから離れたくない、少しの間だけ、今だけ、ここにいたい。
碁石の残された盤上に、私があるのなら。

満たされていく。
彼の声に、ヒカルの声に、盤上の語る碁に。
誰もいない対局場に、風の音が聞こえたのは、私たち2人しか知らない。

 

 

 

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