棋院を出て、空に舞い上がって要は言った。
「綺麗だ…」
「え?」
要の視線の先に、沈む夕日があった。
少しずつ、少しずつ、沈む夕日が時間の流れを教えてくれる。
いつもヒカルと見たものが、今はこんなに違うように見える…。
「久しぶりに沈む夕日、見たよ…」
要は眩しそうに目を細めた。
一瞬、風が吹いた気がした。
それはきっと気のせいで。私の髪が揺れることはなかった。
暫く2人で夕日を眺めていた。
落ちていく日はゆっくりだと思っていたけれど、なんて早い。
すぐに地平線に消えていった夕日を惜しむように、私たちはずっとそこで立ち尽くした。
足を地面につけることなく。
「帰ろうか?」
要がぽつりと呟いた。
「そうですね」
落ちた夕日に背を向けて、私たちは帰った。
ヒカルの待つ家へと。
「そういやさー、あの部屋って何だったんだ?他の部屋と何か全然違ったけど」
要は幽玄の間のことを聞いてきた。
私は搭矢アキラに始まり、あの者と、ヒカルのプロ試験と合格、それから私の対局の話をした。
要は囲碁を大分覚えてきた。
口でばかりの説明に、実践も一度もしたことが、出来ることがないけれど、
それでも要は囲碁のルールを覚えてきている。
打てれば、どんなにいいだろう。
ヒカルと、私と、…それから要も、
ここで3人で、少しの間でもよかった。言葉を交わして、打てれば、どんなに幸せだったろう。
「じゃ、その搭矢って名人?に会いに行ってみる?」
要はそう聞いてきた。
会いに?
考えもしなかった。
会ってどうすると言うのだろう。
そうだ、会いたいわけではないのだ。
「いいえ。会えば、きっと取り返しのつかないことになります」
「取り返しのつかない…?」
「きっと、強く打ちたいと思ってしまう。ここを離れられなくなってしまう」
きっとそれはよくない。
私が今、一番しなければならないことは、碁を打つことではないのですから。
碁が打ちたい。
だから、今は立ち止まらずに、次へと進まなければならないんでしょう。
もう立ち止まり、振り返ることは、終わったのですから。
「そうだな…。うん、なら、いいや」
要は笑ってそう言った。
「要、大分碁を覚えてきましたよね」
「え?うん、まぁ、少しはな。だいたいで」
ヒカルが向かっている碁盤を指差して言った。
「コレがシチョウってやつだろ。で、これが当たってて、こっちがもう死んでる石」
基本的なものばかりだけれど、要は私の教えたルールをきちんと覚えていた。
「もう1つ、とっておきの手、教えましょうか」
「え?何々?裏技?」
「ふふ、違いますけど」
私はヒカルが置いていた石の一つを指差した。
「これが相手に取られると、かなり不利になるのがわかりますか?」
「えー…、と…」
「黒がこう囲うと、地が大体こう。予想であって、大体ですが」
「うんうん、で?」
「それをこれが死なずに生かせれば、守り、それに後々攻めの働きもしてくれます」
「うん、まぁ、なんとなくわかるような…」
「こういう絶対に必要な石のこと、カナメ石と言うんです」
「…え」
「要石。絶対に必要な石の名前です」
「かなめ…」
私はにっこりと笑いかけた。
「要は、私にとって絶対に必要な人です」
「っ…えと」
「ありがとう、要。感謝しています」
「う、ううんっ、そんな…俺、たいしたこと…」
「いいえ、要がいてくれなかったら、きっと私は何も出来ずに、何も知らずにいたでしょう」
要は困ったように照れ笑いをした。
「本当にありがとう、要。まだ暫く迷惑をかけてしまうとは思いますが…」
「ううん。全然OK!これからもヨロシクなっ」
要が手を差し出す。
それをしっかりと握って。
体温はないはずだけれど、その手は暖かかった。
ヒカルの夏休みが終わり、制服が衣替えされる頃までに、要はある程度の力をつけていた。
ペンを持つことも、碁石を動かすことだって出来た。
ヒカルに手紙でも書いてやろうか?と要が提案してくれたが、断った。
私は、自分でなんとかしたかったし、
紙で、ここにいる、と伝えてもヒカルを動揺させるだけだろう。
ヒカルはもうここに私はいないと思っているんだから、
それなら、私はいないことにした方がいいのではないか。
折角歩みだしたヒカルの足を、わざわざ引っ張ることはない。
私はただ、ヒカルに言いたい。会いたいだけ。
それならば、夢で会いましょう、ヒカル。
待っていて欲しい。
私が力を使えるまで…
「難しいなぁ…」
要は私に力の使い方の手解きをしてくれていた。
が、なかなか上手くいかない。要もどう教えていいか戸惑っているようだ。
「ある意味、学校の勉強より難しいかも〜」
「すみません」
「んーん、いーけど。どーなんだろ」
要はその辺に落ちていた鳥の羽をふわりと浮かせ風に乗せた。
「こう、浮け! って念じるだけなんだけどなー」
「念じるって言われても、そう思ってはいますよぉ」
「んぁー、難しい〜〜〜っ」
浮け、と思って浮くなんて、未だに少し信じられない。
私は今まで何度となく碁石を持ちたいと思ったし、それでも碁石が動くことは一度もなかったのですから。
要が動かしているものも、目の前で起こっていることなのに何故か不思議で堪らない。
空を飛ぶことと、物を動かすことは、天と地の差があるようだ。
「佐為は下生活が長かったからかー?」
「さぁ…?」
「くそー、俺だって出来たんだ!佐為、オマエも出来るはずだ!練習あるのみ!」
「はい!」
ある日、ヒカルと一緒に家に帰って来た時だ。
「お帰り、ヒカル、手合いの通知が来てるわよ」
「通知?!」
「見せて!」
ヒカルと私は同時に声を上げた。
ヒカルはハガキを母親から奪い取ると嬉しそうに息を吐いた。
「………決まった!やっと!」
やはり!
要は首を傾げた。
「何が?」
「2週間後か!」
搭矢との、名人戦一次予選。
そう言うと、要は「ああ」と納得し、ヒカルはすぐに碁盤に向かった。
ヒカルは搭矢の本因坊戦の寄付を並べだした。
搭矢、打とう!
打たなければオレ達は始まらないヒカルの声が聞こえた。
おまえが打ちたかった佐為はもういないけれど
"オレの碁"の中に佐為はいるから
おまえが気づくかどうかはわからないけれど
オレはおまえに負けないくらい強くなって
これから先もおまえとずっと打つから
それでいいだろ!ヒカルが置いていく碁石の音が私の何かを掻き立てる。
力が湧くような、疼くような、じっとしていられない衝動。
なんでしょう?
何か、
私は立ち上がって、外に出た。
「佐為っ?」
ざぁぁっ……―――
「風…?」
その音を聞いて要が首を傾げる。
わかった。
「要…」
「え?」
「わかったんですけど、止め方、止め方がわかりません〜〜〜」
「はぁ?」
風は、これは私の力で起こってる。
現に、私の周りの草木しか音を立てていない。
要もすぐに状況を理解したらしい。
「すっげ、やったじゃん!…って言ってる場合じゃないのか?!」
「どどど、どうしましょう!止まらないんですーーっ」
風は弱くはなく、力強く空に舞う。
ざぁぁっ……―――
風の音が…、
「さ、佐為、とりあえず落ち着けよ」
「落ち着いてます!」
「いや、落ち着いてねぇし!」
「落ち着いてますって!」
そんなことを言っているうちに、風は優しくなり、緩やかに流れ出した。
「佐為、大丈夫…?みたいだな」
「はい、なんとなく、わかってきました」
風を起こして、それを操る術を体で感じた。
わかる。
私は風を止めると、一息ついた。
何故かどっと疲れたような気がする。
「大丈夫かよ?佐為」
「はい、大丈夫ですよ」
「それにしても、風を操るって…佐為、本当変わってるって言うか、すげぇなー」
「自分でも驚きましたよ…」
「でも、なんかいいな。神様みたいじゃん」
「え…?」
「俺の出来ることって人間であっても出来ることだもん。ペンで字書いたり、葉っぱ持ち上げたり」
「……」
「風だって空気だから、幽霊は動かせるのかな…?なんか想像つかないや」
要は苦笑した。
「でも、いいな。俺が生きてたら…」
「?」
私が首を傾げると、要は笑った。
「その風を感じれるのに、ってこと」
「そうですね」
「ね、もっかいやってみてよ。まぐれじゃないよね?」
「いいですよ」
私は先ほど感じた風の操り方を思い出してみた。
風は私からヒカルの家の庭を通り、そのまま分散されて空気となった。
それは草木が揺れる音で確かめることが出来た。
「すんげー!やった!やったな!佐為っ、おめでとっ!」
「はい、ありがとうございます!」
その日は嬉しくて一晩中2人して力を使ってはしゃいでいた。
そして、
私は唯一、ヒカルにしてあげられることを実行した。
ざぁぁっ……―――
ここに、いるんですよ。
いつもの場所からヒカルを見つめて風を起こした。
ヒカルは振り返って笑った。
「すっげー、いい風」
学校へと向かうためにまた前を向いたヒカルを、
私と要は顔を見合わせ笑いながらついて行った。