ヒカルの夏休みが残り少なくなった頃、要は突然思い立ったように私に提案してきた。
「合宿行こう!」
「はい?」
合宿?
要は嬉しそうに笑って一気にまくし立てた。
「そう、合宿!最近家に篭ってばっかだし、体鈍ってるかもしんないし、気分変えたら力も使えるようになるかもしんないじゃん!俺も最近下で遊んでなかったしー。な!佐為!合宿っ」
「は、ぁ…」
「なんだよぉ、その気のない返事は。行くだろ!」
「え、ええ」
要の気迫に押されて返事をすると、要は立ち上がって「おし!」と笑う。
「じゃ、ヒカル、ちょっと行ってくるなー」
要は碁盤に向かうヒカルにそう一声かけると、ほら行くよ?、と私を促した。
「今行くんですか?」
「そうだよ。思い立ったが吉日って言うじゃん」
唖然とする私の手をとって要はずんずんヒカルの部屋の窓へ向かう。
そこからすぅっと窓を抜けて行く。
外へ出て空を飛ぶ。ずいぶんと低かったが久しぶりの空だった。
地上に足をつけてから飛ぶことはしなかった。
私たちはすべて歩いて、ヒカルが走れば走ってきた。
「空もいーだろっ?」
飛びながら要は私に問いかけた。
「そうですね」
2度目の空だと言うのに、今まで何度もそうしたように空を飛んだ。
それが不思議でならない。それでいて懐かしい。
暫く飛んでから、要はぐいと進路方向を変えた。
「いったいどこに行くんですか、要」
「んー?あそこ」
要が指差したのは映画館。ヒカルと一度来たことがある。
暗い中で大きなテレビを大勢で見るんですよね。迫力があって楽しかったのを覚えている。
「この前のCMでやってた映画見たくてさ〜」
要ははにかんだ笑顔を見せた。
映画館内に入ると要は目当ての映画がすぐに始まることを知った。すぐに部屋に入る。
「っ?!」
私は部屋に入った瞬間に言葉を失った。
「か、要っ」
「ん?何?」
そこには大勢の人がひしめき合っていたのだ。
いや、もしかして
「この…人たちは…幽霊?」
「え?あ、そうだよ?そっか、佐為はここ初めて?」
慌てて首を振った。この部屋かどうかはわからないが映画なら一度見たことがある。
「へ?その時もこんな感じだったろ?」
「いえっ、以前は私は幽霊など見えませんでしたし…」
何とも妙な光景で、きっと生きている人間と死んでいる人間が混ざり合って座っている。
信じられないことに同じイスに2人の人間が座っていることもある。もちろん、片方に実体がないから出来ることなのだろう。
通路に座り込んでいるのはほとんどが幽霊だった。人が自分を通り抜けていくのを何事もないようにただ座っている。
いえ、実際痛いなどと感じないので何事もないのですが、私はそういうことは極力避けるようにしている。人が自分の体をすり抜けていくなんて気分が悪いからです。
「幽霊が見えない、幽霊、ね…」
要は私を見て呟いた。
それから私は周りの幽霊の方たちが気になって(自分も幽霊なのになんですが…;)映画には集中出来なかった。
映画館から出ると私はほっとして、つい大げさにため息をついてしまった。
「佐為、ごめん、居ずらかった?」
要は申し訳なさそうに私を見上げた。
「え、まぁ、少し…。でも映画は楽しかったですよ?」
私が笑いかけると要も控えめに微笑み返した。

「佐為ってさ、昔ヒカルと一緒の時、どんなだったの?今とどう違った?」
要と人気のない場所を選んでぶらぶらしている時、要はそう言った。
「そうですね…、幽霊は見えませんでしたし、力の存在も死者の世界の存在も知りませんでした。ヒカルと話も出来ましたし、引力があるみたいに離れられなくて……。ヒカル以外の人には見えませんでしたが…まるで生きていたみたいでした。碁もたくさん打ちましたしね…」
要は私をじっと見つめた。
「生きてたんじゃない?」
「え?」
「佐為は生きてたんだよ、きっと。ヒカルに会うために」
要は屈託なく笑った。
ヒカルのために存在した
それは、消える時私が思ったこと――
「ええ」
そうですね。
私はヒカルのために存在していた。
でも今は―――?
今は何のために、誰のために存在している―――?
「いーなぁ、佐為は。いっぱい生きてきて」
「……」
私は笑顔を返すしかなかった。
存在していたけれど、それは生きていたと言うんでしょうか?
ただ、私は生きていたのではなくて…
「生かしてもらっていた…」
「え?」
ヒカルに。虎次郎に。
彼らがいたから私は在った。
私は生きていたんじゃないんですよ。
要は人の心を察するのが本当に敏感だった。
「でもさ、やっぱ生きてたんだ。皆相手を生かして相手に生かされてるんだよ」
要は笑う。
「みーんな、さ。だからきっと探すんだ。生きてた時の大好きな人を」
要は空を見上げた。
建物の間に見える、小さな空を。
「死んでもなお、生きるために。最期まで生きるために」
「要…」
「自分とさ、大好きな相手のためにここにいるんだ。そうだろ?」
自分のために
ヒカルのために
死んでもなお、私は存在する。
「な、佐為」
「――――はい」
そうあって欲しい。そうでありたい。
ヒカルのために、自分のために。

 

「佐為、次どこ行くー?」
映画を見て、ぶらぶらして、要は満足したらしい。
「特に行きたい場所はないですねぇ」
「えー、何だよ、何かあるだろ!」
「そんな…;」
「ほら!思い出の場所とか!ヒカルと行った場所とか!」
「そうですねぇ」
ヒカルとの思い出の場所…
思い出の場所、思い出の場所…
「ヒカルの部屋ですかね?」
「それじゃいつもと一緒じゃんか!ほか!」
「他ですか…?えっと…、あ!」
「何?」
「じいちゃんのお蔵―――!」
「蔵????」

こうして私たちは蔵に来ていた。
「うわ、暗い」
「私のいた碁盤はこっちです」
二階にあがって碁盤を見た。
何も変わらない碁盤。いえ、変わってる。
あのしみがもうない…
「へー、へー、これが佐為の碁盤?へぇ〜〜〜」
要は物珍しいものでも見るようにそれをまじまじと見つめた。
「あれ?ここ少し汚れてる」
要は触れるはずのないそれに手を伸ばして盤面を擦った。
私が碁盤を見ると、要の擦った場所に汚れなど見えなかった。
「どこも汚れてないじゃないですか」
「えー?」
要は盤面に顔を近づけた。
「あるよ!薄っすらとだけど、ほら」
要は盤面を指差したが私には見えなかった。
汚れ?しみ?
私の存在の印―――?!
まだ、そこに在ると―――?
「要…、それは、血に見えますか…?」
「は?え?ああ、うーん?見えないこともないよう、な???何で?」
私は唖然として説明した。
私の存在を証明したしみを。
「でも、佐為が、本人が見えないなんてあり?」
要は碁盤と私を見比べた。
「…それはわかりませんが」
「佐為の証明…ねぇ」
要は碁盤をまじまじと見た。
「幽霊だと見えたりすんのかな?」
「じゃあ私は?」
「うーん???????」
私たちは不思議に思いつつ蔵を後にした。

 

「佐為、他は!」
要はじいちゃんちのお蔵を出てまた元気よく聞いてきた。
「他と言われてもですねぇ…」
ヒカルとは、碁を打ってばかりいた。
ヒカルにくっついて学校に行って、部屋で打って、ネット碁をねだって。
棋院と学校とを行き来する毎日で。
「私は、碁のことばかり考えてましたからね…」
「…佐為はほんと、好きだな、碁が」
要は柔らかく笑った。
「ええ」
「じゃ、棋院行く?気晴らしに」
「え…それじゃいつもと同じじゃ…」
「違うよ!さ、行こ!」
要は無邪気に笑って棋院に向かうために空に舞い上がった。

「そういや対局場以外って行ったことねーじゃん?他に何があるの?ここって」
「そうですねぇ、一般の人用の対局場とか…あ……」
「何???」
「私…、行きたいところ、ありました」
「え、どこどこ!」
あの部屋へ!
私は慌てる必要などないのに、慌てて階段を駆け上った。

幽玄の間――――

襖は開けられることなく、開けることなく、私を招き入れてくれた。
変わらない、変わらない空気。
鮮明に蘇る記憶。あの者の前に座ったあの場所。
きっとヒカルと一緒にいて、一番困らせただろうあの一局。
きっと私の生きてきた中で一番のわがままな一局。
微かでも、あの者に私の存在を知らせたこの場所。
あの頃、私も打つことに執着して不安定になっていた…。
「………」
「佐為…?」
私は泣いていた。
何故でしょう。涙が止まらない。
確かに私はここであの者と打った。
ハンデをつけての、めちゃくちゃな碁。
それでも確かにここで。
目から零れた涙は畳に落ちてシミを作った。
これは、私と要にしか見えないシミなんだろうと漠然と考えた。
「佐為、打ちたい?」
ゆっくりと要に視線を向けた。
「…はい」
打ちたい。
生きている時も、死ぬ時も、死んでも望むこと。
要は笑った。
「佐為、打とうか」
「へっ?」
要はゆっくりと部屋を見回して、碁盤を見据えた。
碁盤の前にゆっくりと移動して静かに座った。
呆然とする私に要は視線を寄こして私を呼んだ。
「佐為」
私はその声で歩を進めた。
碁盤の前に座って要と向かい合った。
要は少し笑うと、真剣な眼差しを私に向けた。
「お願いします」
要ははっきりとそう言った。
碁盤に碁笥が乗ったまま。碁石の持てぬ碁打ちが2人。
「お願いします」
パチっ
碁石の音が聞こえたような気がして、私は目を閉じた。