私と要は私が初めてここに来たときにいた場所、つまり受付(らしきもの)に来ていた。
「あいつに気づかれないように向こうへ行くんだ」
あいつとは受付にいた男で、向こうとは長い列があるほうだった。
「誰かに呼び止められたりしても止まんないで、俺の後についてきてよ?」
「はい」
「あ、もめてる。よし、行こう!」
要は列のほうに走り出した。私もそれにつづく。受付をみると、若い女の人が何か言いながら怒っていた。と、受付の男と目が合ってしまった。
あ…
「あ、お前らどこへ行くっ!こらっ、戻って来いっ!!」
すぐに、それが聞こえない所まで走った。要は走りながら振り返り、ガッツポーズをしてみせた。列は長く続いていたけれど、とうとう列の最後尾まで来た。すると要は走るのを止めた。最後尾を少し行った所には、崖があった。
「佐為、ここから飛び降りるから」
「ええっ、ここから?!」
ぞっとした。この崖は底が見えないぐらいの深さだったのだから。
それに崖の向こう側、私達がいるところから先は、「無」だった。なにもない。海があるわけでもなく、陸があるわけでもなく。闇とも違う。真っ暗だったけれど、闇とは違うように感じられた。
「大丈夫、俺たち死んでるんだから怪我なんてしないよ。この先が生者の国なんだ。さ、行こう」
それでも少し、いえ、かなり怖かった。それがわかったのか、要は私の手を握って笑いかけてくれた。ほっとした私は要に微笑みかえすと要と一緒に崖の中に飛び込んだ。
「…うっ」
変な感覚が全身を覆った。落下しているはずだが、暗くて何も見えなかった。でも要の手がしっかり握っていてくれるのがわかった。
「佐為っ、目ぇ開けてみなよ!」
私はいつの間にか目を瞑っていたらしい。ゆっくりと目を開けると私は空を飛んでいた。
崖はもう見当たらず、暗くもない。ただ、綺麗な青に包まれていた。
ふわふわと、空を飛んでいたのだ。
下を見ると家やビルや車などがが米粒くらいに小さく見えた。
「要…」
私は手を握ってくれている要を見た。なにがなんだかわからなくて混乱した。
「すごい綺麗だろ?生きてるときじゃ見れないからなぁ」
確かに綺麗だった。ヒカルと出会ってから珍しいものをたくさん見たけれど、どれとも違う綺麗さだった。
「佐為、もうここ、生者の国だぜ」
あ!
「要、下りましょう!早くっ!」
「わかってるよ。佐為、一人で飛べるか?」
そう聞かれて私は恐る恐る要の手を離した。飛ぶ、という行為は歩くのと一緒ですんなりと出来た。
ゆっくりと降りていくと見覚えのある景色があった。
「要っ、要っ!私、ここ、この辺知ってます」
「へえ、よかったじゃん。ヒカルはどこにいんのかな?今、夕方っぽいけど」
もっと降りていって、人が見えるぐらいになると見慣れた金色の髪が目に入った。
!!
「ヒカルっ!!」
「ええっ!いたのか?どこ?!」
「あそこっ、公園に!」
ヒカルと出会った頃にこの公園で碁石の持つ練習をした。
ヒカル!
「あれか?あれがヒカル?」
もう要の返事をしていられなかった。私は急いで地上に下りるとヒカルに駆け寄った。
「ヒカルっ!!」
ヒカルはこちらを向いてくれなかった。
「ヒカル?」
私がヒカルの前に立つとヒカルは私の体をすりぬけて、なにごともなかったように歩いていった。
「・・・・」
私は声が出なかった。
もしかして…ヒカルは私が見えていない?
「佐為っ、今・・・」
追いついた要は私を心配そうに見ている。
「…ヒカルっ!」
私はヒカルに駆け寄った。ヒカルはぼーっと突っ立ている。
「ヒカル!私が見えないんですか?!ヒカル!!」
ヒカルは返事をしてくれない。
「ヒカル!聞こえないんですか?私の声が…」
要が近づいて来た。
「・・・・佐為」
「要、どうして…?ヒカルが…、私を見えないなんて」
「佐為・・・」
どうして?ヒカルっ!!
「この公園で昔 碁石打つマネしたことがあったな」
!!
ヒカルが喋っていた。
でもガラス越しに聞くみたいに、聞こえにくかった。
こんなに近くにいるのに遠くにいるような気がして、私は胸が苦しくなった。
「佐為が碁石みたいな石を見つけて」
ヒカル…
ヒカルはしゃがみこむと石を一つ持ち上げた。
「そうそうこんなだ。で、これで打ってみろってオレに言ってさ」
「バチッと打とうとしたら石がすっ飛んでったっけ」
「…………」
「ヒカル・・・」
どうして、見えない?
「進藤」
「「和谷」」
私とヒカルは同時に和谷の名を呼んだ。
「何やってんだ!?おまえ」
「な…何って。和谷こそなんでこんなとこにいるんだよっ」
「おまえのうちに行こうとしてたんだよっ。森下師匠怒ってるぞ!」
怒っている?
「ヒカル何かしたんですか?」
聞こえないとわかっていてもつい言ってしまう。
「研究会には来ねェし。手合いもサボってるし!」
「え?!」
ヒカルがっ?!
「棋院には何の連絡もしてねェだろ!? スランプか!? 五月病か!?」
「ヒカルっ、どういうことですかっ!?」
ヒカルは私にも和谷にも答えない。
「なんか言えよ!言わなきゃおまえが何考えてるかわかんねーよ」
その時、ヒカルの考えていることが私に聞こえた。
(言えるかよ 碁なんてもうどうでもいいって)
前と何も変わっていない。ヒカルの考えていることが私の頭に直接響く。ガラス越しみたいに聞こえるんじゃない。
綺麗に聞こえた。以前より鮮明に聞こえるようにも思えた。
「碁なんてどうでもいい!?どういうことですかっ?!ヒカ」
(それより佐為に会いてェ)
「…っ」
どうして?ヒカル、私はここにいるのに。もう会えているのに…。
「なァ、オレ。ひとり暮らし始めたんだ」
「院生のみんなも来るぜ!来いよ、おまえも」
「いい」
「進藤、おまえだけだぞ。止まってんのは!」
「オレは大手合3局打って2勝1敗だけど―――― 越智なんかもう4局打って4連勝だぜ」
「本田さんや小宮や他のみんなも今年のプロ試験に向けてがんばってる。伊角さんは聞いた話じゃ中国のプロ棋士相手に碁打ちに行ったってよ」
伊角さんがですか?
「そうですか、伊角さんもがんばっているんですね」
「伊角さんが?中国?」
「ああ。進藤、オレ達去年伊角さんもいた中でやっと合格したよな」
「今年伊角さんはゼッタイ受かる!おまえ伊角さんがプロに来た時にさぼってましたって言うのかよ!」
「はずかしくねーのか。碁は打ちてーんだろ!? 打ちてーよなっ!?」
「そうですっ!ヒカル、なぜ打たないんですかっ!!」
私がいない間、何かあった?
「オレが先番だ いくぞ!16の四 星!」
「う」
「……………」
「フッフッ」
「ほぅら 2手目を考えたろ! 言えっ 2手目を!」
ヒカルは耳を塞ぐとすごい勢いで走っていった。
「うわああ」
「あっ、ヒカル!」
「進藤っ」
前ならヒカルとは見えない力で引っ張られて離れられなかったのに、今はそんなことはなかった。
ヒカルは私から離れて、見えなくなっていた。
「バカヤロオ」
和谷・・・
「和谷!私がなんとかします!待っててください!」
私はすぐにヒカルの後を追った。
「あ、佐為っ!もうっ、唐突なんだからっ」
後ろから要が文句を言った。
「ヒカルっ!!」
ヒカルに追いつくと私は一気にまくし立てた。
「なぜ打たないんですか?!手合いもさぼるなんて!!碁なんてどうでもいいってどういうことですかっ!?ヒカル!!答えて下さい!!ヒカル!!!!」
それでもヒカルは答えない。私を見てはくれない。
「どうして?ヒカル…。ヒカル」
(佐為に会いてェ)
!!
「ヒカル!私はここです!!ここにいます!!」
(…佐為)
「・・・・・」
ヒカルが碁を打たないのは
もしかして
私のせい―――?
私が消えたから―――――?
―――ヒカルなんか 私が突然いなくなってオロオロすればいいんだ―――
!!
私があんな事考えたりしたから―――
ヒカルに私が見えないのかもしれない。
ヒカル――――
「ヒカル、ごめんね」
「・・・佐為」
要を見ると心配そうに私を見ていた。
「要、すみません。必ず約束は守ります。でも…」
今、ヒカルから離れるなんて…
「わかってるよ。でも俺も一緒に行くぞ、いいだろ?」
「ええ。ありがとう」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
私はヒカルの後について歩いた。以前と同じように。
その私の後ろに要がついてきた。
ヒカルは自分の部屋でベッドに寝転がってぼぉっとしていた。
「ヒカル・・・」
私は悲しくて悲しくて涙が出そうになった。
「佐為・・・」
要が心配そうに私を覗き込む。
ごめんね、要。要にまで迷惑をかけてしまって。
ヒカルにも・・・
私のせいで・・・・・・・・
「・・・う」
ヒカルが顔を顰めたと思ったら、口を押さえて顔を真っ青にした。
「ヒカルッ?!どうしたんですかっ?」
「うっ・・・、気持ちわる・・・」
「「え?!」」
そう言ってヒカルはぽろぽろと涙を流した。それほど苦しいんだろう。
「んん・・・」
「ヒカル?!どっ、どうしましょう?!」
「どうしようって言われてもっ」
私はヒカルの前でおろおろと歩き回った。要も私と一緒におろおろした。
「さ・・・い・・・」
「?!」
ヒカルはそう言うとふっと意識を飛ばしてベッドに突っ伏した。
あ、
そういえば・・・
ヒカルと初めて会ってから私が碁を打てないと悲しんだ時に、ヒカルが気持ち悪くなってしまったことがあったっけ。
もしかして私が悲しんだらヒカルに影響してしまう?
「大丈夫かっ?ヒカル、気絶しちゃったけど」
「大丈夫、だと思うんですけど・・・」
ヒカル、大丈夫ですか?ごめんなさい、もう悲しんだりしないから。
ずっとそばにいますから。
だから
笑ってヒカル。
碁をやめるなんて言わないで。
「ヒカル」
私は触ることの出来ないヒカルの頬にそっと触れた。
やっぱり触ることは出来ないけれど
「要っ!」
「えっ?何?」
「私はもう悲しんだりしませんよっ!ヒカルの為にっ!!」
「え?え?うん、それはうん?まあ、いいけど」
私の突然の宣言に要は首を傾げたけれど、私は要に聞いて欲しかったんです。
私はにっこり要に笑いかけると、要は心底ほっとしたように微笑んだ。
ヒカルと私はまだ繋がっている。
声が届かなくても、姿が見えなくても、まだ繋がっているから。少し寂しいけれど、悲しくはないから。
ヒカル、私はここにいますから。
早く元気になってくださいね。