「準備はいい?佐為」
「はい…!」
私たちはヒカルの寝るベッドの傍らに立っていた。
ヒカルに会いに、夢の中に入るために――――
「いい?行くよ」
「はい!」
「せーの…っ」
私たちは要の掛け声で一斉に力を出した。
一度も試したことのない、夢に入るための力を。
バチンッ、と音がしたような気がした。
目を瞑っていたからか真っ暗で、何が音を立てたのかわからない。
一瞬、要の声が聞こえた。
「佐為、頑張って」

目を開けると、不思議な場所に立っていた。
一瞬、空の上かと思うような青。それに淡い黄色の雲のような…
すぐにヒカルの夢だと気がついた。
なぜなら、ヒカルが前方の少し離れたところに立っている。
私に背を向けて、ただ立っている。
「ヒカルっ」
私は駆け寄った。
「ヒカルっ」
ヒカルは振り向かなかった。
「っ……」
夢でも、ヒカルに私の声は届かないのですか…?
一瞬、こちらの世界に帰ってきた時初めてヒカルに私の体を素通りされたことを思い出して、胸が痛んだ。
それでもいいと思った。たとえ、体を素通りされようが。
ヒカルがいる。夢でも会えた。
今日が駄目なら、明日も来ます。今度は見えるように、ヒカルに届くように、力をつけて。
ゆっくりとヒカルに近づく。
ほとんど隣にいるのに、ヒカルは私に気がつかない。
「…ヒカル…?」
小さく呼んでみると、ヒカルはゆっくりと振り返った。
ヒカルは少しだけ、驚いた様子を見せた。
「佐為…」
「ヒカル…」
見えて…?
「夢に出てきてくれたんだ、おまえ」
「ええ」
ヒカル…。嬉しい。
ヒカルが近くに感じる。ヒカルの声は、いつもの何かを隔てたように聞こえるのではなくて、いつも一緒にいたころのように、綺麗に澄んで聞こえた。
「どんなに願ったでしょう。あなたに会うことを」
「佐為、今日搭矢と打ったんだぜ。アイツとだよ!名人戦1次予選の1回戦。いい勝負だったんだ」
「はい、見てました」
「負けちゃったけどさ」
「でも、素晴らしい、いい碁でした」
それを見ることが出来て、私は幸せです。
「だけど、まだまだ何百局何千局と打つんだ。オレと搭矢は」
「ええ、そうですね」
「アイツの碁会所でこれから時々打とうって約束もしたんだよ」
「よかったですね、ヒカル」
「森下先生にはナイショだけどな、ハハ。そうだ!伊角さんがプロ試験、合格したぜ!」
「はい!今日決まったんですよね」
「あ、それから三谷が大会に―――」
「ヒカル…」
「あー、もう、おまえが消えてからいろいろあってさ!」
私の姿は見えていても、声は届いてないんですね…?
「話すことが、いっぱいだ……」
「ヒカル、大丈夫、ずっと見ていましたから」
それでも、いい。ヒカル、私が見えるんですよね?
声など届かなくても、私はここにいる。
ね、ヒカル
「……………………佐為」
「はい?」
「なんで消えた?」
「ヒカ」
「ずっと打ちたいって言ってたじゃねェか!なんで消えたんだ!わかんねェよオレ!」
ヒカル…、悲しまないで。
「ずっと、打ちたいです。今だって。だから消えなければならないんだと、そう思うんです」
「………消える時、どんな気持ちだった?」
「ヒカル…」
「悲しかった?」
悲しく…は、なかった
ただ、寂しい。ヒカル、あなたに、私の声は届いてなかったのでしょうか?
それとも、届いていたのでしょうか…。
「それとも今みたいに笑ってた?」
「…………」
笑っていたでしょうか?ただ、ヒカルに…
「…………笑ってたら、いいな」
ヒカル、
今は、笑ってさよならを言えるから。
「佐為、搭矢がさオレの中にもう1人いるって言ってきてさ。あせっちゃったよ、オレ」
「ええ、驚きました」
「でもなんか嬉しかったな。アイツが気づいてくれたのが」
「――はい。とても嬉しかっ」
っ!?
空間が歪む感じとはまさにこのことかと思うほど、夢の中で何かが揺れた。
見上げると、夢が弾けそうだと感じた。
そして、要が頑張ってくれているのを感じた。
もう、時間がない――?
「佐為」
もう少し!
私はありったけの力を込めた。
夢を少しでも延ばして――!ヒカルと過ごす、最後の時間―――
「佐為」
「あ、はい」
「行くな、なんか言えよ。消えるな!」
「ヒカル…」
わかるんですか?もう時間がないこと…
「佐為」
ヒカル、でも行かなければならないんです。
ヒカルが碁を打つように、私も進まなければ。
「ヒカル、これを」
私は扇子を差し出した。
「………佐為?」
わかって、ヒカル
「ヒカル、ありがとう。楽しかったです」
ヒカルが私の扇子に手を伸ばす。
「進むことをやめないで、ヒカル。いつかまた、会いましょう」
さよなら、ヒカル
ヒカルが扇子を手にした時、
バチンッ、と音がして、私はヒカルの中から弾き出された。

「佐為っ」
気がつくと、ヒカルの部屋で要に支えられていた。
「大丈夫?佐為」
「え、ええ。なんだか変な感じが…残ってはいますが…」
くらくらとするような感じを味わいながら私はヒカルを見た。
ベッドに眠っているヒカル。
確かに…、ついさっきまでヒカルに会っていた。
夢でヒカルに会っていたのだ。
それは私の手の中にない扇子が教えてくれていた。
ヒカル、私はもう行きますね。
「佐為?」
要は心配そうに私を覗き込んだ。
私はにっこりと笑った。
「大丈夫。ちゃんとヒカルに会えましたから」
「ホント!?」
「はい」
「よかった!よかったな!」
要は本当に嬉しそうに笑ってくれた。
「ありがとう、要」
「へへ…、どういたしまして」
「さ、もう帰りましょう」
私が笑うと、要も笑った。
「うん、帰ろうか」
私たちがヒカルの部屋から出ようとして、2人で立ち止まった。
「佐為?」
「要こそ」
「あはは」
私たちは少しだけ笑いあうと、振り返ってヒカルを見た。
「「さよなら、ヒカル」」
声が要とぴたりと重なる。
また私たちは笑いあって、外へと足を踏み出した。

さよなら、ヒカル
寂しいけれど、悲しくはないから――――

 

 

空に舞い上がると、朝日が昇るところだった。
「綺麗だ」
要がぽつりと呟いた。
「…前も、言ってましたね」
「え?うそ、そうだっけ」
「ええ」
「だって、綺麗なもんは綺麗だしな」
「ええ、そうですね」
私たちはそのまま暫く朝日を眺めた。
「何だか…少し夕日に似てますね」
「え?どういう意味?」
「上の、あの死者の国の夕日に、少し似てる」
「…そう…か?」
私が頷くと、要は頷いた。
「そういえば、あれが夕日だってわかんないもんな。沈みも昇りもしないもん」
私は頷いて朝日を眺めた。
朝が始まる。
ヒカル、今頃起きだしたでしょうか?
私の夢、わかってくれたでしょうか…?
「あれ?」
要が首を傾げた。
「佐為、あれは?ほら、いつも持ってる扇子」
「え?ああ…、あれは…、ヒカルに渡してきました」
「へェ…、よかったな」
私は笑って頷いた。
ヒカル、わかってくれましたよね。

遠くでがちゃっと音がして私たちは振り返った。
ヒカルが家を出てきたところだった。
もうそんな時間に…?
「晩ごはんまでには帰るよ」
「わかったわ」
「じゃ、行って来る!」
駆け出したヒカルを、私たちは空の中から見つめた。
「ヒカルーーっ」
要はそう叫ぶと手を思いっきり振った。
私もマネをしてみた。
「ヒカルーっ、行ってらっしゃーい!」

それから

行って来ますね!ヒカル

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「みゃぁ」
猫の声に顔を下げてみれば、私の足元に猫がちょこんと座っていた。
私は首を傾げると聞いてみた。
「私はあなたのことは知りませんよ?残念ですけど」
その猫は私をじっと見つめて、とことこと私に向かって歩くと、ぴょんと軽々と私の座っていたベンチの隣に飛び乗り、体を丸めた。
「誰か探してるんでしょう?いいんですか?探さなくて」
その猫の頭をそっと撫でると、ごろごろと喉を鳴らした。
「少しだけですよ?私はもう行かないといけないんですから」

私は死者の国に帰ってきてから、すぐに要と別れた。
要は大切な人、猫の魅亜ちゃんを探しに―――
私は彼方の青い世界へ行くと―――
「俺たちもさよならだな」
「あ、私も一緒に探しますよ」
「いい。どんだけかかるかわかんないし。それに、佐為が彼方の青い世界行ってくれれば嬉しい」
要はそう言って笑った。
「佐為の役にたててよかった。佐為が行けたら、俺も行けるって、そんな気がするから」
「要…」
「俺は大丈夫。佐為も、大丈夫だろ」
「―――はい」
「じゃあ、お別れ。今までありがと」
「いえ、私も感謝しています。ありがとう、要」
「ううん。佐為には俺もいろんなもの貰った。佐為は気づいてないかもしれないけど」
「え…」
「じゃあ、元気で」
要は私に手を差し出した。
私はその手を取って、強く握り締めた。
「さよなら、佐為。またね」
「…はい。さよなら、要」
私たちは、それぞれの道へ戻った。

ごろごろごろ……
猫がしきりに喉を鳴らす。
「本当は早く行かなければならないんですけどねェ」
少し休憩と、この世界を見納めようとしたら、この猫。
くすっ
「私がまだ少しここにいたかったのが、わかったんですか?」
ごろごろごろ……
彼方の青い世界へ行くのが嫌なわけではない。
ただ、夕日が。
朝日とも夕日ともわからない、あの夕日が、少しならここにいてもいいと言ってるようで。
少しでいいから、あの夕日を眺めたかった。
「本当に…綺麗ですねぇ」
「にゃぁ」
ふふ、賢い猫ですね。それとも幽霊だからでしょうか?
ごろごろごろ……
なんて気持ちのいい音。
私はそっと目を閉じた。

「佐為」
名前を呼ばれて、驚いて目を開けると目の前に要が立っていた。
今までないくらいに目を見開き、驚いた様子で。
「魅亜…」
え―――?
ごろごろごろ……
隣にいた猫は優雅に猫らしく立ち上がり、軽やかにベンチを下りて要に駆け寄った。
そして要の足に擦り寄って「みゃあん」と鳴いた。
「要…」
その子が、魅亜ちゃん――?
「な…」
要は魅亜ちゃんをじっと見ていた。
信じられない、
そんな感じでしょう。
「みゃぁ」
要はへたりとしゃがみ込んで笑った。
「も…、ばっか。どこ行ってたんだよぉ」
「みゃあん」
要は魅亜ちゃんを抱き上げて、抱きしめた。
「待っててくれて、ありがと、魅亜」
「みゃあ」
要は魅亜ちゃんを抱っこしたまま、私の隣に座り込んだ。
「で?」
「え?」
「さよならした佐為がど〜して魅亜と一緒にこんなトコにいるのかなぁ?」
「え…」
要はにっこりと笑いながら、怒ってるんだと言わんばかりの顔をした。
「あの、別に、少し休憩を」
「何が少しだよ!あれから結構たったよ!」
「え?そうですか?あ、夕日を見てたんでちょっと時間を気にするのを忘れて」
「忘れるなよっ!早く行けって!」
「うう、ひどいです。わかってますよぉ」
「もう、佐為は最後まで頼りないんだから」
「……」
返す言葉もありません。
「じゃ、一緒に行こう」
え?
「魅亜見つかったし。俺も行くよ?彼方の青い世界」
「え、え?本当に?」
「もちろん」
要はにっこりと笑った。
「にゃぁ」
魅亜ちゃんは私に向かって一言鳴いた。
「ほら、魅亜も一緒にどうかってさ」
「え、ええ!もちろん!お邪魔でなかったら!」
「じゃ、行こ!」
私はベンチから立ち上がった。

 

 

 

 

 

 

 

 

彼方の青い世界――――

それは空のような、海のような、不思議な場所が目の前に広がる崖でした。
果たしてどこまであるのか、どこが底なのか、何があるのかまったくわからなかった。
それでも不安は微塵もなくて、ここに飛び込めば「先」があるのがわかった。
「佐為、怖くない?」
「大丈夫です」
「うん。俺も怖くない。普通怖いよね、こんなトコからダイブしろってさ」
「そうですね…」
「俺達を待ってるんだ。だから怖くない」
「そうですね」
「この先、何があると思う?」
「え…。そうですね、考えたことがなかったです」
「俺もない。わかんないし。でも、何があってもきっと大丈夫だよな」
「もちろんです」
「じゃ、佐為、2度目だけど…、またなっ」
要は嬉しそうに笑って、魅亜ちゃんを抱いたまま、崖に飛び込んだ。
私も一瞬遅れて、その彼方の青い世界に飛び込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「遠い過去と」

え?

「佐為」

ヒカル?

「佐為!」

………聞こえるのですか?
私の声が―――聞こえるのですか?…ヒカル!

「遠い過去と」

「遠い未来を繋げるために」

「そのためにいるんだ オレは」

「オレ達は」

「誰もが」

 


ヒカル――?
遠い過去と、遠い未来を繋げる――――?

 

 

遠い過去と、…遠い未来――――…

 

 

私も…―――

さよなら、遠い過去の私

そして、遠い未来へ――――

 

 

 

 

 

 

 

最期に見えたのは、
まっさらな青―――――

 

 

 

 

 

 

 

あとがき